河

親密さの河のネタバレレビュー・内容・結末

親密さ(2012年製作の映画)
4.2

このレビューはネタバレを含みます

一部では『親密さ』という演劇に向けた準備の過程が描かれ、二部ではそれが実際に上演される。

言葉は想像力、思いを運ぶ電車であるとして、降りるべき言葉で想像力が降りて乗るべき言葉に乗ること、渡されるべき相手に渡されるべきタイミングで、言葉によって思いが伝えられることが理想として『親密さ』という演劇の中心にある。しかし、演者がセリフを言うのではなく、セリフを渡すのだと指導されるシーンから始まる通り、その演劇の演者たち、そしてカップルである脚本家と演出家の間でもその思いの受け渡しは実現されていない。

それを実現するため、主人公は演者たちに対してディスカッションやインタビュー、講義などのレクリエーションを行う。インタビューは私はあなたではないという前提の元、あなたは誰かと聞くものになっている。

脚本家の一部のセリフ、二部の詩によって、言葉として降りれなかった思いは不発弾の花火のように自己の中に堆積していくこと、そして次の言葉に乗れなかった思いは街のあらゆるところ(例えば電柱)に落ちていること。そして、『親密さ』という演劇の中心にある理想である電車の比喩も、同じように街に落ちていたものだということがわかる。

そして、一部では演出家のレクリエーションを通してもその思いはほとんど受け渡されず、登場人物の中に堆積してきた思いが炙り出されていく。そして、二部の『親密さ』は渡されなかったラブレターについての演劇であり、登場人物たちの思いは伝えたい相手には受け渡されずに終わる。

二部ではトランスジェンダーの詩人が現れ、身体とは別に魂が存在すること、魂は他の魂とつながることを望むこと、そして繋がろうと伸ばされた魂の手が愛であることが詩を通して伝えられる。身体的、表面的な繋がりに対して、魂による繋がりが存在し、言葉によって思いを伝えようとすることが魂から手を伸ばすことであり、愛となる。

一部で演出家が行う講義は恐怖についてである。恐怖は自己を守るために存在する。であれば、自己の存在を守ること以上の意味を持たなければその恐怖は乗り越えられない。そして、その恐怖を乗り越える勇気を持ったことが自分のように恐怖している人々にとっての勇気となるということが、その自己を守る以上の意味となる。

そして、一部の講義に対応するものとして、二部で読み上げられる暴力の胞子についての詩がある。暴力を選択肢を奪うことだとするならば、その暴力は被害者が選択肢を閉じてしまうことによって完遂される。被害者は自身の選択肢を閉ざすことでその暴力に加担していることになる。そして、社会には選択肢を奪うような雰囲気、言葉が暴力の胞子として溢れている。そのため、その暴力の胞子のような言葉を選択しないことを選択する必要がある。

渡されるべき相手に渡されるべきタイミングで言葉によって思いが受け渡されるという理想が叶わないのは、自己を守ろうとする恐怖によるものであり、それを選択させない暴力によるものでもある。思いを言葉によって受け渡そうとすること、それ自体が自分と同じように勇気を持たない人々のためになると気づくこと。そして、受け渡すことを選択すること、つまり暴力の胞子を選択しないことが、魂から手を伸ばそうとするために必要になる。

一部には脚本家と演出家、演者の男女という主軸になる2組のカップルが存在し、それぞれが互いにそれぞれの彼氏彼女とも精神的な繋がりを持っている。二部の演劇ではそのうち片方ずつが不在になることで、残された二人はそれぞれのカップルの代理となる。そして、一部の最後では脚本家と演出家が、二部では演劇を通して脚本家と演者の女性が互いに魂から手を伸ばそうとする姿が描かれる。そして、二部の最後には演出家と演者の男性が違う電車から偶然同じ駅に降りて再会する。それによって思いが受け渡された瞬間が象徴される。そして、互いにまた別の電車に乗っていく。

二部の最後で、トランスジェンダーの詩人が脚本家の演じる男の書いた詩を読み上げる。全ての世界が同じ時刻になった時間、その時間にラジオを通して渡されなかった思いが届けられていくというものである。世界中の全ての思いが同じ駅に同じ時間に降り、乗るべき電車へと乗っていくという理想であり、『親密さ』という演劇の中心となる理想を変奏したものとなる。そして、それは男が部屋に落としていたものであり、脚本家が街に落ちていたのを拾ったのと同様に、トランスジェンダーの詩人によって拾われ投稿される。そして、その理想はTwitterで拡散されることで、次はインターネットの中に落とされていく。そして、この映画自体がそのどこかに落ちていたその理想を拾い上げたものとなっている。

魂が手を伸ばすこと、それによって繋がること、一方的に伸ばしただけで終わること、そもそも伸ばせないことについての映画であり、それが繋がるという誰かが落としていった理想を拾い上げる映画にもなっている。

魂が手を伸ばそうとしているのを捉えたような一部の最後の夜明けを背景とした会話の長回しが非常に良く、その中で発される主軸となる思いの受け渡しというテーマと響き合う「夜明けは君といる時間といない時間を今日から明日へ渡す」みたいなセリフにかなり感動した。ただ、この監督の映画の中ではかなりべったりと感傷的な映画で、そこに震災後の時代の雰囲気みたいなものを感じて苦手だった。

魂が手を伸ばすことについて、それが触れ合うことや一方的に伸ばされることについて、その媒介としての言葉についての映画を撮り続けてる監督なんだろうなと思った。
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