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親密さのasobunのレビュー・感想・評価

親密さ(2012年製作の映画)
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新文芸坐にて去年に続き二度目の鑑賞。
一度目の感想 
映画という虚構の演出に現実的要素?を挟む事で、いつしか現実と演出の境が曖昧になり、自分の存在の確かささえも不確かになる4時間15分
ある劇団の本番までの彼らの稽古と日常の前半、休憩を挟み、後半の観客を入れての劇中劇2時間10分、そして、その後。名前も顔もよく知らない役者たちの日常の前半パート、自主映画みたいな安ぽっさ、前半ラスト辺りの20分?以上の長回しに眠気を誘われ、後半を観るのを躊躇う。
後半、2時間10分の劇中劇を観客を入れて実際の時間演じる。それを劇中劇の観客と共に観るという少し、稀有な体験。度々映る劇中劇の観客の反応に、一瞬、これってリアルなんだっけ?と疑問がよぎる、いや、演出でしょ!と突っ込む自分。その疑問と突っ込みが自分の頭で繰り返し起こる2時間10分。劇中劇の観客が果たして、演出としての観客なのか、そうでないのか?反応を見ている限り、自然過ぎて、どっちなのか分からない。更に、劇中劇のパートで演劇終了後の打ち上げ、その後の日常と劇中劇が続いていく。段々と前半の役者たちの朧げだったキャラクターが後半では、自分の中で肉付けされ、確かな存在感が現われる。それが一層、演出と現実の不確かさに拍車をかける。映画である限り全て演出であるはずだけど、自分以外の観客の存在や役者の存在感によって、又、自分、劇中劇の観客、役者と2時間20分を共有する事による一体感?ライブ感?によって、ひょっとしてリアルなのかも?というか、このリアルな感覚って何?をめぐる問答。ミスリードされていく感覚。暗示?自分という主体的に観ているはずの作品に更に主体的に観ている劇中劇の観客という存在。スクリーンを隔てた先のもう一つの劇中劇の観客のライブ感。劇中劇の何重にも入れ込んだ構造に、自分の存在の確かささえも不確かになっていく居心地悪さ。映画の主題とは無関係かもしれないが、タイトルの「親密さ」とは虚構と現実、存在感の確かさの土台は演出によって簡単に曖昧になる事への皮肉なのか。疑問がグルグルするばかり。
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