ヨーク

月の寵児たちのヨークのレビュー・感想・評価

月の寵児たち(1985年製作の映画)
3.9
早稲田でのイオセリアーニ特集延長戦四本目。
これも面白かったですね。発表されたのは本作『月の寵児たち』の方が先なのだが、俺が観た順番では『群盗、第七章』の方を先に観ていた。それで思ったのは『群盗、第七章』の方は本作のバージョンアップ版だったのだなということでしたね。時代を越えて描かれる群像劇という点では本作と『群盗、第七章』は似ている。そして群像劇と言いつつそういった体裁の映画になっていながらも実は個人としての登場人物同士の関りを描いたものではない、ということも共通していた。本作を観て、群像劇としてなっていない、とか言っちゃう人がいたら人間しか観てないんだなぁ、と思っちゃいますね。
お話の中で主人公と言える人物もいなくて、本作で主役と言える存在がいるのだとしたらそれはキャラクターではなくて一枚の絵画と絵皿であった。映画は多分18世紀くらいの絵皿の職人の仕事風景から始まり、その後おそらく100年後くらいの裸婦像を描く画家へと移っていく。そしてその次は絵皿と絵画がオークションにかけられるシーンになるので。早くもこの辺で5~6分ほどウトウトと居眠りしてしまったのでそのオークションがどうなったのかよく覚えていないのだが、気が付くと舞台は現代のパリになっていて、絵皿と絵画はどちらも多くの人手を渡った末に(多分)今の持ち主である画廊の主人と警察の幹部? 的な偉い人の元にあることが描かれる。そっから先は様々な階層のパリの人間が行ったり来たりでとめどない展開を繰り返し、その人間たちの営みの中で絵皿と絵画も様々な運命を辿っていく、というお話ですね。
イオセリアーニの後の作品である『群盗、第七章』もそうであったが、登場する人間たちのドラマを個の物語として描くのではなくてあくまでも突き放して風景のように描いているのが特徴であると思う。だから人間ドラマとしての群像劇を期待して本作を観たらともすれば稚拙に感じられる部分もあろうとは思う。でも『群盗、第七章』にしろ『月の寵児たち』にしろ非常にマクロで個人の視点から見たらどうしようもなく無常でやりようのない世界を描いているんですよね。身も蓋もないと言ってもいいかもしれない。だから盛り上がるような山や谷はなくて出てくる人物たちの起承転結に沿った物語上の役割とかも特にない。そして無常で何のためにこんな映画を…と思ってると不意にポエティックなセリフが出てきたりシニカルで乾いた笑いが出てきたりして、あぁ生きてるってこういう感じだよなって思ってしまうのである。
本作は多彩な人間が重層的なドラマを描き出しながらも最後には一つのテーマに収斂されていく、というような理想的な娯楽映画では全くないけれど、人間の愚かさも可笑しさも悲しさも楽しさも、全部とっ散らかりながら拡がっていくのだということを思わせる映画であったと思う。その中で象徴的に扱われている絵皿と絵画というのも変わらない普遍的なものという一面を持ちつつも物理的には様々な変化を遂げていくのである。まさに”ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。”である。おそらくイオセリアーニは自身の作品が50年後や100年後にどう扱われているだろうかというようなことを考えながら絵皿と絵画を描写したのではないだろうか。
そしてそう思いながら本作を観ると、無常さの中で浮かんだり沈んだりする風景や群像としての人間への親しみをより感じることができると思う。様々な人間たちの手を渡って、交換や変換や移動という正に経済とでも呼ぶしかない営みを続ける芸術作品の姿から浮かび上がってくるのがその周囲にいる、またはいた人間たちの姿なのである。多分、人間はいつの時代のどんな場所でも大体こういうことしてるよっていうのが描かれていて面白かったですね。ちなみに本作でもちゃんと飲みながら歌ってるシーンはありました。人が生きてて楽しいのって大体そんなもんだよな。
これがさらに一大叙事詩的に進化したのが『群盗、第七章』なのだと思うが、俺としては本作のミニマムさも味わい深くて甲乙は付け難いって感じでしたね。面白かったです。
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