きゃんちょめ

ゲームの規則のきゃんちょめのレビュー・感想・評価

ゲームの規則(1939年製作の映画)
5.0
ゲームの規則はこれから世界を覆うことになる世界秩序だ。人間が政治ゲームのコマとして交換されていく。命が文字通り、狩られていく。それを敏感に察知することができる監督を、人は名監督と呼ぶ。ルノワール監督は名監督であった。さぁ、私も呼んで見せよう、彼を名監督と。

名監督はいつも女優への妄念に突き動かされ、その叶わぬ愛を映画という究極芸術に昇華し、永遠の愛を、時間を、生きられた経験を、その画面の中に封じ込める。ルノワール監督が出ているのはそういう理由だ。

女の子たちは男の馬鹿さを全部分かっている。裏でみんなで楽しくぜーんぶ知っている。ガールズトークとはそういうものだ。そういうガールズトークを見ることができる。

"アンドレは大西洋を渡ることはできた。しかし、シャンゼリゼ通りを横切ることは出来なかった。"とルノワール監督はそう劇中で言っていた。俺も実はそういう男かもしれない。

変身することで明らかになった本当の姿。それは、ルノワール監督の本当の姿は『毛むくじゃらのクマ』であった。彼は自分のことをクマだと思っているのだ。天才の自意識は得てして低いものだ。理想が高過ぎるから自意識がその反動を受けるのである。クマが純真なみんなのアイドル、チロル少女を愛してしまった。角川春樹が原田知世を愛してしまったように。ヒッチコックがキム=ノヴァクを愛してしまったように。

ゲームの規則は全体化だ。ある一人の人間の死。あるひとつの世界の終わり。これが、ゲームの中に還元されていく。密漁人として見間違えられたことにされる。ゲームは強化されていく。意味を与えられていく。死に意味が与えられていく。


全体が全体化するのは、劇の中で生きる人々だけではない。劇の外を生きる人々、すなわち我々観客すらも映画によって全体化されていく。最後にアンドレが射殺されるシーンは、我々が主観視点でアンドレを撃っているようだった。POV形式で狩りをさせられたのである。それまでにずっと長いこと狩りのシーンを見せられているから、逃げ回り撃たれるとコロリと死ぬウサギをアンドレにすり替えられても、僕たちはコメディのようにケラケラとあっけなさに笑ってしまう。それまでのドタバタコメディの流れで銃をぶっ放すことにはためらいがなくなっているのだ。しかしそこではたしかに、夢を追う飛行士がひとり殺されたのである。そう、ゲームの規則は映画を飛び出して僕らの世界にも侵食してくるのだ。

よくよく考えてみよう。下女に間違えられた主人を愛する男に間違えられた男が間違えて殺されたのである。これは二重の勘違いだ。もはや、本当に殺したかった男など被害者にしてみれば、なんなら他人じゃないか。こうやって無意味に命が失われたのである。

ラ・シュネーが客一同に向かって、これは偶発的な事故なのですと説明する。すると客の一人が、これは「事故の新しい定義ですな」と皮肉る。映画はそこで終わる。このセリフの異常さ。

『事故の新しい定義ですな。』

だと?

、、、なんだと?!?


最後の最後で観客は、言ってみれば、自分の心の奥底に眠る人間性の最後のともしびによって、その異常さ、不自然さに、はっと気づかされる。自分が未だ人間であることを、他ならぬ自分によって知らされるのだ。この痛みをともなう最後の通達を、僕たちはこれからの人生で何度も思い出さねばなるまい。


こうして1939年、第二次世界大戦の前夜、全体主義へと向かう虚ろで空っぽな目をした上流階級は、ルノワールの鋭い指摘を恐怖した。恐怖したから、拒絶した。だから、この映画は売れなかった。凄すぎて、同時代人は誰も自分たちを直視できなかったのだ。

僕の隣の席で、この映画を見てくれた僕の親友に、この批評文を捧げる。ありがとう。


2016年12月21日
きゃんちょめ

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