河

ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地、ジャンヌ・ディエルマン/ブリュッセル1080、コルメス3番街のジャンヌ・ディエルマンの河のレビュー・感想・評価

4.4
夫と死に別れ娼婦として働きながら子供を育てる主人公の日常生活が3日に渡って意図的な省略と意図的に省略しないことによって撮られた映画。

主人公の背景には戦争があり、青春時代を戦争によって奪われている。そして、結婚は叔母からの生活から逃げるためのものだった。だからこそ、主人公の持った家庭自体が主人公の望んだものなのかもわからない。それが青春時代が嵐であった、思想の実る秋にある今も空いた穴埋めをしているという詩に象徴される。

1日目にカナダに住む妹からの手紙が読み上げられる。それは再婚を勧めるものであり、その返事を主人公は2日目3日目にも書けないままでいる。

主人公は日常生活と切り離すような形で娼婦としての労働を送っており1日目、2日目はそれが意図的にカットされ省略される。2日目に料理中に男が訪れ、ジャガイモ料理を失敗する。それよって主人公の中で性労働との切り離しを担っていただろう入浴ができなくなる。そのタイミングから切り離されていた性労働が生活空間に浸食し始める。

囚われたようなルーティンの生活の中にある唯一の期待として、船で届く妹からのプレゼントがある。主人公がそのプレゼントを期待するように郵便受けを繰り返し開ける。3日目、崩れつつある生活リズムの中で、唯一の期待が妹からのプレゼントだと定めたように、以前の妹からのプレゼントを修理しようとするが、それもうまくいかない。

そして、その期待していたプレゼントの中身は妊娠服である。それによって、身動きがとれない日常生活と性労働の現在の中、期待していた未来が家庭を持つという重圧を受け続ける未来へと置き換わってしまったような感覚がある。

そのプレゼントの中身を見た瞬間に男が現れる。男の入ってくる場所は寝室であり、そこには開封に使われた生活空間から持ってこられたハサミがある。今度は生活空間が性労働の空間に侵食する。それによって、1日目には切り離されていた日常生活と性労働が溶け合ってしまう。

それによって囚われたような生活で唯一保たれていた境界が崩れ、未来への期待も消えたことでさらに身動きがとれなくなってしまったような感覚がある。そして、1日目2日目ではカットされていたセックスが映され、そこで男によって物理的に身動きがとれない状態にされていることが映される。

その男が繰り返し生活空間として映されてきたベッドに寝始めることで、性労働と生活空間の境界の崩壊が決定的なものとなる。そして、性労働の空間としてのベッドにおかれた生活空間のものであるハサミで男を刺し殺す。それは性労働、日常生活両方の空間を切り裂くことになる。

3日目、子供に早く帰ってくるようにと伝える前、子供が父親からセックスの話をされたこと、それを話された時にそのセックスをわざと邪魔したことが主人公に話される。であれば、早く帰るように伝えたのは、この生活を破壊するためにその男が来ている時に子供に帰ってくるように仕向けたかったからではないかと思う。ただ、子供は夜になっても帰ってこずに終わる。

子供との散歩や2日目の食事シーンなど省略する部分は省略しつつも、靴磨きや料理の準備など、日常における作業は始まりから最後まで省略せずに見せてくる映画となっている。男が来ることによってジャガイモ料理に失敗し、それをまた買いに行って皮をむき始めた時、ここまでの流れでそれが全てむき終わるまで見せられることが既にわかっているので、その失敗したしんどさがこちら側にもあった。
観客がスクリーンに縛り付けられているという映画特有の状況を利用して、その日常生活における退屈さやしんどさを無理やり観客にも体感させる映画なんだと思う。

そして、その退屈さは主人公がその二つの空間を切り裂いた後にも、変化しない長回しによって続けられる。それによって、主人公はこれから先もその退屈さ、繰り返しから逃れられないような感覚を残して終わる。

ミニマムな音使いや作業の細部の豊かさ、それによって無言でも主人公の考えていることが伝わってくる感覚は非常に映画だと思うし、本来映画として映されないものを意図的な省略と省略しないこと、そしてカメラの切り替えによってうまく映画として構成した映画のようにも思う。
ただ、映画的じゃないものを映画的なものとして見せる、それによって快を与える映画というよりは、映画的な形でパッケージングすることで観客に映画という形でその映画的じゃないものを見せる、それによって観客に苦痛を与える映画のように感じた。これ以上のアトラクション映画は他にないように思う。
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