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ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地、ジャンヌ・ディエルマン/ブリュッセル1080、コルメス3番街のジャンヌ・ディエルマンのtntnのレビュー・感想・評価

5.0
一回目でも凄い映画だと思ったけど、二回目見たら、発見があまりにも多くて退屈しなかった。
本当に素晴らしいと思う。








日常の細かな所作の反復と差異が、パターソンにとっては愛おしくて堪らないもので、ジャンヌ・ディエルマンにとっては精神の均衡を崩していく引き金になるのは何故か。鑑賞してから1週間ほど経つけどまだ明瞭にわからない。
折り目をつけるかのような照明のオンオフ。キッチンという場所が持つ性質。細かい動作を全て見せ切るくせに、家に招いた男達と部屋で何をしているかは、クライマックスまで見せない。忙しなく家の中を動き回るディエルマンの世界。そこに侵食し始める、何もしていない無の時間。音割れ上等で観客を襲う赤ん坊の「悲鳴」。
寝はしなかったけど、正直集中はところどころ切れる。でも映画は続く。
映画監督の三宅隆太は、『ハロウィン』(2018)について「劇中で殺人鬼に殺される人間達が、明日も変わらず日常が続くと信じている」と指摘していた。同じく映画監督の三宅唱は、「ホラー映画の怖さは、人生が一度きりしかない点にある」と指摘していた。
二人の三宅によるホラー映画への言葉は、この映画への補助線になるのか。ジャンヌにとって、全ての動作は、昨日も一ヶ月前も3年前も繰り返していたものだったと思う。おそらく彼女は、明日も1年後も10年後も続けるつもりだったかもしれない。観客は、たまたまその最後の3日間に居合わせたわけだけど。
クライマックスの彼女の行動は、「衝動」や「魔が差した」といった言葉では表せない、際限なく続くと思われていたルーティンの反復(斎藤綾子は、「儀式」と呼んでいた)と、彼女の中で蓄積されていたそれに対する意識の帰結だったのでは。
だからこそ、ラストカットのインパクトがある。日常は終わった。しかし彼女は、とてつもなく重い何かにじっと耐えているかのよう。あそこでまた新たな繰り返しが、彼女にのしかかったのかもしれない。
『アケルマン試論』が、かなり面白かった。
通りを走る車の明滅するライトが部屋を不気味に照らし続ける演出は、『トウキョウソナタ』の冒頭を連想。というか、黒沢清の復讐シリーズは、大体ここから来てたりしないかな、、?
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