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ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地、ジャンヌ・ディエルマン/ブリュッセル1080、コルメス3番街のジャンヌ・ディエルマンのambiorixのレビュー・感想・評価

4.4
日本よ、これが食器カチャカチャ映画の最高峰だ!
先日発表された、英国映画協会(BFI)の選ぶ「史上最高の映画100本」においてみごと1位に輝いたのが本作『ジャンヌ・ディエルマン ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地』。果たしてこのランキングにどれぐらいの権威があるのか、寡聞にして知りませんがためしに他の顔ぶれを見てみると、2位がヒッチコックの『めまい』で、3位がウェルズの『市民ケーン』、以下『東京物語』『花様年華』『2001年宇宙の旅』…と続く。まあいい意味でも悪い意味でも王道のオールタイムベスト企画であることは間違いないようです。なのに1位だけが異質。いったいなぜ? そのうえこの『ジャンヌ・ディエルマン ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地』は1975年に発表された作品であり、2012年の同ランキングでは35位にとどまっています(ちなみに当時は『めまい』と『市民ケーン』のワンツー)。近年に作られた映画が新しくランクインしたわけではない。つまりどういうことかというと、映画の中身が変化したのではなく(当たり前だけど)、時代の方が映画に追いついた、と推測するのが自然かもしれない。なので、この10年の間に世界に何が起こったのか、作品のどの部分が現代人の感性と共振したのか、そういうことを考えながら見てみるのも面白いかと思います。
さて本編。主人公のジャンヌは夫に先立たれたシングルマザー。ベルギーの首都ブリュッセルのアパルトマンで高校生くらいの息子と二人暮らしをしています。映画は、ジャンヌがご飯を作って息子と食べたり、散歩をしたり、靴を磨いたり、コーヒーを淹れたり、食器を洗ったり、郵便局に行ったり、買い物をしたり、知り合いの赤ちゃんを預かったり、カフェに行ったり、空いた時間に売春をしたり…といった、どこにでもいるような主婦の機械的なまでにルーティン化された3日間の日常をフィックスの超長回しでもってえんえん捉え続けます。ほとんどこれだけの映画だと言っても過言ではありません。いやさ、厳密にいうと上映時間200分のうち、これらの日常描写は190分くらいで、残った10分、最後の最後にとんでもない幕切れが待っている。本作はもっぱらそこの部分だけを取り出して語られることが多いそうですが、でもかといって、今までの退屈な場面はすべてあのラストに奉仕するためにあったのだ、みたいな紋切り型の解釈へは持って行きたくないんだよな。1日目と2日目のシーケンスでジャンヌの生活ルーティンを異常なぐらいの時間をかけて描いてきたからこそ、3日目に相次いで持ち上がるルーティンの機能不全がその辺のホラー映画も真っ青の恐怖として感じられるわけだしな。逆にラストシーンに関しては、因果やフラストレーションが積み重なった結果ああなったというよりも、「何かよく分からないけど突発的に起こってしまったもの」として描かれているようにしか見えなかった。カタルシスもなければ悲劇的なニュアンスもない。言っちゃえばあそこで起きたことというのは「郵便局に行ったら閉まってた」だの「作り置きのコーヒーを飲んだらまずかった」だの「いつもの席に知らんやつが座ってた」だのいう事象とほぼ等価に置かれている。それは、固定のカメラでもってジャンヌに絶えず寄り添いつつ同時になかば突き放して描いてきたがゆえでもあると思うんだけど、この残酷なまでにストイックな眼差しもめちゃくちゃ怖いんだ。ちなみに、俺は別に希死念慮があるわけではないんだけど、遠くない未来に自殺するつもりでいる。ただし、当日になってから豪勢な飯を食ってみたり、どでかい買い物をしたり、風俗で女を抱いたり、みたいなことは多分やらないと思う。これまでと変わらない日常の延長の中でフッと逝くつもりなので、本作におけるジャンヌの破滅っぷりは凄まじくリアルで、とても他人事とは思えなかった。
さいぜん、この10年の間に何が起きたのか、映画のどの部分が現代人に刺さったのか、ってなことを書きましたが、その疑問にもっとも接続しやすいのがフェミニズムだと思うんですね。その視点から見てみると、1975年という時代に稀少な女性監督であったシャンタル・アケルマンが、シングルマザーの主人公の日常を描く女性映画を撮ったことの意義はたいへん大きかったように思う。現にこういうタイプの作品ってまったく思い浮かばないんだよね。売春つながりでブニュエルの『昼顔』やゴダールの『彼女について私が知っている二、三の事柄』あたりが挙がるかもしれないけどテイストがまったく違う。そしてさらに顕著なのがヒロインの描かれ方。フェミニズム映画批評の嚆矢であるローラ・マルヴィによると、「映画における女性の登場人物はいつも『見る主体』であるところの男性観客から一方的に搾取される『見られる客体』であった」。また、そのシステムは「もっぱら男性中心主義や家父長主義を再生産する役割を果たしていた」。実際に1975年以前に作られた作品を思い浮かべてみると、そこに出てくる女性というのはどれも男性の観客に対して露骨に媚びるようなコケティッシュな人物として描かれることがほとんどだった。なんだけど、本作の主人公ジャンヌはそういう描かれ方をしていない。極端な長回しで撮られたジャンヌの日常所作に性的な興奮を覚える男はおそらくいないはずだし(有名なイモを剥くショットやミートローフをこねるショットにいたってはグロテスクでさえある)、強いていうなら冒頭の入浴シーンやラストのあれがそうかもしれないけど、その2つも性的に消費されることをあえて拒むかのように作ってある。ようするにジャンヌは、従来の「見る主体」であった男性観客の視点を撹乱し失望させ続けることによって「見られる客体」化を巧みにすり抜けとるわけですね。しかも、それらを定点観測的な固定カメラで、つまり(男が女を搾取する上ではうってつけの)のぞき見風のフォーマットでやってのけるわけですから、もはや男性の観客を挑発あるいは嘲笑してすらいる。そして極めつけに、ラストのあのシーンでは搾取してくる男を逆に搾取し返してもいて、この点でもアケルマン監督の成し遂げたことというのは当時においてもかなりエポックメイキングだったんじゃないですか。男性観客の欲望を満たすようなイベントが何一つ起こらない映画。ただ、長々書いてきたけれども、「本作によって女性が見られる客体であることから解放されたのだ」といえるほど話は単純ではないし、この議論自体も別にマルヴィが健在だった1970年代にだってできたわけで、この映画がなぜ今になっていきなり再評価されはじめたのか、という疑問の答えにはなっておらないかもしれません。スイマセン。
最後に、シャンタル・アケルマン監督がもつスタイルの特異さについてもう少し言及しておきたいと思います。実は先述した英国映画協会のランキングというのは、映画ファンではなく、1600人以上の映画評論家や研究家などの投票によって決まっています。上位のメンツを見てもわかるように、ストーリーの面白さやテーマ性の高さよりも映画的なテクニックを重視した作品、いわばまさに「後世の人間を嫉妬させるようなオリジナルのスタイルを持った作品」が多く選ばれているわけです。そんな中で、『ジャンヌ・ディエルマン ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地』が『めまい』や『市民ケーン』と肩を並べるほどオリジナルな作品たりえているか、っていうと俺はたりえていると思う。なぜならこんな映画は後にも先にも存在しないから。映画史的なパースペクティブの中に無理やりこの作品を位置づけようと思えば決してできなくはない。たとえば、あまりにもそっけなさすぎる俳優の演技演出や劇伴の一切を排し言葉よりも自然音に多くを語らせる語り口というのは否が応でもロベール・ブレッソンを連想させるし、被写体の緩慢なアクションを超長回しのカメラでえんえんと追い続け象徴的な意味をはぎ取ってしまう撮影スタイルからアンドレイ・タルコフスキーを連想する人も多いと思います。後発の監督ならポルトガルのペドロ・コスタやハンガリーのタル・ベーラとか? なんだけど、それでいて従来のどの映画からも明らかに隔たっている。そう思わせてしまうだけの強烈なプレゼンスがある。上で指摘した男性観客の視線からズレ続ける主人公ジャンヌと同様に、作品そのものも映画史が差し向けてくるフレームから常にズレ続けている。そしてなにより、ゴダールの『気狂いピエロ』を見て映画作家を志したシャンタル・アケルマンがわずか25歳にしてキチピエとはまるで正反対の地平をゆくこのスタイルにたどり着いてしまった、ということの恐ろしさよ。ある意味本編より怖いかも。
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