変わり映えしない、反復される日常の中で、それが大昔から強いられてきたヒエラルキーのシステムによる「おまえはこうあるべき」という社会的束縛だと気づいた時。
少しずつ繰り返されてきた日常の中に、狂気が入り込み、発作的な破壊行為によってそこからの逃避を潜在的に希求してしまう。
実際に行為として実行するかどうかはさておき、潜在的に思ってしまうことは、誰しもあるのではないだろうか。
この作品の場合、その「破壊」に至るまでが淡々と… しかし徹底して、実に緻密に主婦の日常を描くことに費やされているので、最後の「逃避」でのカタルシスのパワーに圧倒される。
そしてその後、再び静寂に包まれ、その中でうっすらと笑顔を浮かべるデルフィーヌ・セイリグ演じる主人公に強烈な印象を受ける。
狂気的なものに宿る美しさ。
この作品を数日前に劇場で観たとき、終盤の刺殺までの日常を映し出すところで、その長尺ゆえ、途中で飽きはじめ溜息ばかりついていたお客さんが近くにいたのだが(前情報ゼロで観にきたんだろうなあ。。)、件の殺害シーンで「え!なんで!?」と思わず声に出して叫んでいたのが面白かった(笑)それまでおそらく眠りかけていたのに。
きっとそういうリアクションも、シャンタル・アケルマンの狙い通りなのだろう。