んたん

ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地、ジャンヌ・ディエルマン/ブリュッセル1080、コルメス3番街のジャンヌ・ディエルマンのんたんのネタバレレビュー・内容・結末

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このレビューはネタバレを含みます

単調な日々の暮らしが孕む不穏さを、その単調な暮らしぶりのパートのみで描いてあった。

ラストシーンまで、ジャンヌがアパルトマンの一部屋で黙々と日常ルーティンをこなすだけでそれは長くて退屈で。でもそれが家事という職業で、その退屈こそが生活の正体だった。
眺めているだけの私は尚更、殺風景とも思えてしまう日常映像に微睡みそうになるけれど、画面の中のジャンヌ自身は実はずっと忙しなく働いている。ヒールを履いて料理し、蒸しを失敗したじゃがいももわざわざ買い直してくるような彼女に長閑はない。

その極限まで端折らない生活の営みのシーンを差し押さえて、時間の流れを最も長く感じるシーンが最後にやってくる。繰返し部屋に入る道ゆく車のヘッドライトの移ろいが、ジャンヌが呆然と佇むだけの沈黙の時間を際立てる。自分も他の皆もどのような表情であのしばらくを見ていたのだろうか。

フェミ映画の先駆けとも言われる本作が作られた当時の家庭のリアルだという認識のひともいるかもしれないが、わたしの周りの日常は未だ似たようなものが見えたりする。

思い出せば、母は外でも働いていた時から自分の入浴は風呂洗いのついでだったし、裁縫や手紙書きや籐編みを散らかしながら断続的に作業する。早くに配偶者を亡くした知り合いが親族や友人に好き勝手に子育てや生活の苦労をジャッジされることに疲弊している話もほんの最近に聞いたことだ。
主婦が抱える閉塞感の正体は、時代の風潮ということばで一括りにはできないように感じる。

かく言う自分も母親を母親の枠に拘束しているいち張本人だし、ジャンヌにシンクロした母親の行動も知り合いの不安も見聞きした事実なだけで、自分が家事育児でフラストレーションを溜めた経験もないし、本人の心理はわからない。

家事とは詰まるところは生理現象を社会的な方法で満たすための行為だと思っていて、自分のみならず他人のためにまでその家事を奉仕し続ける専業主婦という仕事の苦労は到底共感できる立場ではない。そもそもジャンヌの生活を単調だとか勝手に評価する無神経無責任な私が、実生活で当事者に寄り添える自信などない。

たしかに母としての肩書きをもつ身近な人を思い出さずにはいられなかったけれど、この映画をフェミニズムのようにいちテーマとして受け取ってしまうと、他人事な見方で終えていたかもしれない。

ただ本作からは、常に生活に追われている人間皆が感じ得る自分の人生に対する主体性のなさと、そのことについて一瞬でもまともに向き合ってしまったときに生じる無力感を、主婦の憂鬱を通して誰でも再実感する余地がある。そこにこの映画の怖さを見つけた。

初めに書いたとおり、ジャンヌの生活風景の断片のみで(あくまで表面上は)静かに綻びゆく心身を映している点においては、映画としてはすごく面白いのかもしれない。
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