しゃりあ

降霊 KOUREIのしゃりあのレビュー・感想・評価

降霊 KOUREI(1999年製作の映画)
4.4
有名な平たい幽霊はバット持って家入ってくところのところか
転げ落ちていく夫婦、風吹ジュンと役所広司の思い詰めた顔を観ていると本当に息が詰まる
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あまり一般に膾炙しているとはいえないが、世界的に高い評価を得ているのが、黒沢清監督だ。正統派のホラー作品は少ないものの、不穏な画造りが実に上手い。
中でも僕はこの『降霊』が、彼の幽霊作品の中で一番正統派に近くて好きだ。

登場人物は二人の夫婦。妻には霊感があり、近辺で発生した少女失踪事件のため、降霊術の実験に付き合わされている。
彼女は自分の霊感に抑圧されてきた。自分を変えようとファミレスに勤めても、仕事がままならないほどに。
もう逆に能力を活かすしかない。しかし、その想いが事態をさらに悪い方へと向かわせる。

邦画らしい静謐な演技も見どころで、真綿で首を絞められるような展開に息が詰まる。

"動"の洋ホラー、"静"の邦ホラー。
どちらが怖いかは人によるけれど、観た後にトイレに行けなくなるのは、邦画の方だろう。

考えてみると、ホラー映画を観ている時と、普通の映画を観ている時では、画面の見方が異なる。普段は意識しない「画面の余白」に目が行くのだ。
登場人物の背後の空間や、黒く塗りつぶされた画面の闇が、「何かが映り込んで来るような気配」を常に湛えているためだ。
特に邦画では不穏な雰囲気が保たれ続ける。
このネガティブスペースの演出構造は、そのまま鑑賞者の現実に接続される。
つまり「画面の余白」とは、あなたの視界の隅や背後であり、家具の隙間である。

「脳は否定形を理解できない」とよく言う。
大丈夫。いま、あなたの後ろには誰もいない。でも、ひとたび意識すると、かえって厭な想像が滑り込んでは来ないだろうか?
何かを視てしまう気がする。つい顔の歪んだ女を思い浮かべてしまう。

この映画に出てくる幽霊は、"視える人の視え方に一番近い"らしい。幽霊役の女の子の欠席により、代わりに等身大の写真を印刷して窓に貼り付けたところ、その立体感のなさが功を奏し、リアルで不気味な幽霊の描写となった。

『降霊』を観れば、あなたのその怖気は「きっとこう視えてしまう」という具体的なイメージに変わるだろう。
そして、それは独りのときだけでなく、日中のファミレスや、何気ない木陰、恋人の肩口にも潜み出す。
振り払っても、燃やしても、なかなか拭いきれない上質なトラウマになってくれるはずだ。