すえ

不気味なものの肌に触れるのすえのレビュー・感想・評価

不気味なものの肌に触れる(2013年製作の映画)
4.5
記録

良い映画だと思う。アンゲロプロス的曇天に、タルコフスキー的な水(彼には到達していないと思うが)。ややアカデミックすぎる気もするが個人的には好み、これが俗っぽさを増してしまうとかなりの駄作になっていたと思う。今作の肉体の捉え方は卓越したものがある。

距離とコミュニケーションという濱口的なそれを、今作では水(川)と魚を主題に変奏、“触れる”という行為を軸に据えている。

ヒトとヒトは目に見える物質的な距離以上に離れているものであり、そこに介在する無限的距離、それが融解する瞬間が“触れる”という行為によってのみ訪れる。他者との断絶が完全に消失する瞬間、その解け合いの最高地点が濱口映画における唇と唇の衝突であり、その衝突が我々を隔てる宇宙的距離を破壊する。

主演の2人における圧倒的差異は、“触る”と“触れる”の違いを解しているか否かであり、そのズレが破滅的結末を導く。思うに、“触る”とは両者の同意を必要としない一方的なものであり、それに対し“触れる”は了承の上に成り立つコミュニケーションであるのではないか。つまり、“触る”とはコミュニケーションの破棄であり、断絶の容認、表層的・物質的な行為と捉えられる。勿論ここに理解可能性が含まれるはずなく、両者を隔てる宇宙は尚存在している。言わずもがな“触れる”は、“触る”と客観的にはほぼ同じ行為にも関わらず、そこに内在する精神性は正反対のものであると捉えうる。

言葉遊びのようになってしまうが、触(ふ)れられる、触(さわ)られる、触(ふ)れさせる、触(さわ)らせる、といった言葉を並べるとまたその微妙なニュアンスの違いが面白い。言葉では表現しえないその感覚を映像で表現しようとする、そのある種実験的ともいえる試みが今作の出発点ではないかと思える。

ところで水と魚は本当に不可分の関係だろうか、魚は水を必要とするが、水は魚を必要とするだろうか。答えは知らないし、あるのかも分からないが、我々はただなんとなく、不可分であって欲しいと思うのだ。私が誰かを必要とするように、誰かも私を必要として欲しい、その欲望を一体誰が責められると言うのか。求めること、求められること、そこにある安心と孤独。私が誰かを必要とするのに私は誰からも必要とされない、その寂寞。水が私であり、魚が貴方、貴方が水であり、私が魚。私が水か魚か、貴方が魚か水か、それは分からないしさほど重要ではない。そこにあるのはただ、私と貴方が不可分であって欲しいという小さな欲望だけなのだ。

2024,122本目(劇場40本目)5/10 第七藝術劇場
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