このレビューはネタバレを含みます
濱口竜介監督、高橋知由脚本作品。
「不気味なものの肌に触れる」距離とは何なのだろうか。
千尋と里美は、相手の口を手で塞いで自分の甲にキスをする。そして自身の甲を噛み出血する。その加害と愛することの距離零がそうだと思ったが、どうにも違う。
千尋と直也はコンテンポラリーダンスをする。彼らは触れあわない。しかし相手の動きをみて、息を合わせ触れあっているかのように踊る。触れてはないけれど、触れあう。奇妙な状態だ。だが、本作で象徴的な水と魚のごとく、水の中を泳ぐ魚のように、魚に泳がれる水のように、はたまた互いが水のように、関係し合うことで主体を生成変化させていく。
この主体が生成変化する距離こそ「触れる」距離なのかもしれない。そこではもはや実際に肌が触れる/触れないは関係ない。もっと抽象的な触れあいだ。
ではその距離はよいものなのか。違う。生成変化で水や不気味なものが溢れたら崩れる。兄が崩れて倒れるように、里美が横たわり死んでいるように。
ではその距離は銃の射程距離や竹刀の距離なのか、それとも里美と直也が「距離を置いたら」離れられる距離なのか分からない。そして生成変化した先に、身代わりになることが正当だと十全に描かれたとは思えない。
「to be continued」で終わる本作。早く続編を撮ってほしい。
蛇足
千尋はなぜ煙草吸っているの?最初の葬式への移動は何なの?続編で解明されるのかはよく分からない。
あと里美を殺した犯人は千尋ではないと思う。里美が雨の中、直也と会ったあの時に電話していた人だと思うんです。そうなると千尋と直也が心に触れあったようにみえるのは嘘になる。抽象的な触れあいの実現の困難さが続編では描かれるような気がするが…