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ルパン三世 GREEN vs REDのbackpackerのレビュー・感想・評価

ルパン三世 GREEN vs RED(2008年製作の映画)
4.0
ルパン三世OVA第3作
「昔、誰かが言っていた。男は男に生まれるのではなく、男になるのだと。ルパンもまた、然りだ」

本作を見る上で、事前知識として知っておいて欲しいことがあります。
それは、【幻の押井守版ルパン(以下「押井ルパン」)】構想の存在です。

押井ルパンは、『カリオストロの城』を監督した宮崎駿の下に、新たな『ルパン三世』新作映画の企画が持ち込まれた際、宮崎駿の事務所に“居候”していた押井守を先方に紹介したことから始まった構想です。

押井ルパンのスタートを報じる〈アニメージュ1984年10月号〉の特集タイトルは、「世紀末の現代に押井ルパンの盗むものは何なのか?」とのこと。
この特集タイトルには、押井ルパンが幻と消えた原因が、既に端的に述べられています。

そもそもの発端は、『カリオストロの城』製作に際して宮崎駿が抱いた、『ルパン三世』というコンテンツへの問題意識にあります。
宮崎駿の問題意識を掻い摘んで言えば、「『ルパン三世』というキャラクターの持つ魅力は、時代の変化に伴い薄れた。最早金で買えぬ『お宝』を夢見る時代は終わり、泥棒の活躍を描く土壌は失せた」ということです。
この問題意識を受け継いだ押井守は、ルパンに"虚構"を盗ませることにより、ルパンそのものの虚構性を明示し、ルパンというキャラクターに対する引導を渡すことを計画します。

残念ながら、この企画に対する各所からの反対により、押井守は降板。
穴の空いた上映企画を埋めるために、ルパン三世partⅢ制作陣による突貫工事映画『バビロンの黄金伝説』が、代わりに制作されることとなりました。


以上が、幻と消えた押井ルパンの簡単なあらましです。
では、本作『Green vs Red』となんの関係があるのでしょうか?
答えは簡単です。本作が、「押井ルパンを再解釈・再構築した作品と考えられている」ということです。
少なくとも、私はそうだと感じています。

本作は、過去に作られてきたルパン作品(各アニメシリーズ、劇場版、TVSP)の設定・キャラデザ等が異なることを逆手に取り、それら全てがルパンであってルパンではない=本者であり偽者でもあるという、ルパンの存在事態がひどく曖昧なものとして語られています。
冒頭から「容姿も盗みの手口も何もかもバラバラで、なんの役にも立たないルパンのプロファイル」が登場し、その不確実性・虚構性を見せつけることからも、『曖昧な存在のルパン』という考えが顕著に現れます。
この『曖昧な存在のルパン』という本作の基本コンセプトの時点で、なかなか難易度高めの作品に仕上がっておりますが、本作が内包するものはそれだけではありません。

・カットが変われば時も場所も異なる時間軸の分散。
・分散した時間軸それぞれのシークエンスにて描かれる内容の結末が曖昧・不透明。
・意味深なキャラクター設定が活かされず消えていく。
・ジェネレーションギャップによる世代間思想対立。
・飼い慣らされ無抵抗な平和に対する軍事力の浸透。
・核問題。
・夢追い人達、夢破れた者達。
・男と女。
・理想と現実、そして幻想。

これらの要素が複雑に絡み合い、溶け合い、分離しながら混ざり合う。
いつしか、「ルパン三世ってなんだ?」という主人公たちの疑問は、鑑賞している私の疑問と同一化していきます。

ルパン三世ってなんだ?という疑問は、
「ルパン三世という存在が、みんなの作り出した幻想だ」
というセリフにより、作中にて一応の回答を示し、遂にはルパン三世=自分自身という同一化を果たします。
ただし、それもコチラがそう思い込んでいるだけで、本当のところは誰にもわかりません。
ただ一つわかることは、今度のルパンは"新型"だということだけなのです。


ここまでツラツラ書き改めて思います。
やはり本作は、押井ルパンの再解釈・再構築作品だ、と。
それと同時に、本作は、幻想と消えた押井ルパンへの敬意を持って執り行われた、葬送の儀であったのだ、とも思います。

そしてもう一つ、本作は、

『ルパン三世』という非現実生の象徴は、虚構の神である
彼は、誰もが憧れる"理想の某"であると同時に、誰もがなれる"理想の某"でもある

という、泡沫の夢に対する感謝の物語なのだ、というのが、私の感想です。

こんな自慰同然の思いの発露みたいな、駄文でしかない滑稽なレビューを読んでくれる方がいれば、非常に嬉しいです。
また、このレビューを読んで、良い悪いどちらの感想であるにせよ、本作を見てくださる方がいれば、益々もって感謝の極みです。
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