丽遥

恋人たちは濡れたの丽遥のレビュー・感想・評価

恋人たちは濡れた(1973年製作の映画)
3.8
画面全体に漂う倦怠感と鬱屈とした雰囲気。数回にわたるセックスも快楽のためでなく、この気持ちをどこかへ押しやろうとすべく励んでいるようにしかみえなかった。セックスはするけど、どんどん女を振り切っていって、最後はやはり1人になる。女たちも主人公の破滅へと向かう運命に追従すればつまらなさから抜け出せると思ったのかもしれないね。

特に3人で馬跳びに興じるシーンからの畳み掛けは神がかっていて、追い詰められた人間の原初化というか、子供に翻ったかのような振る舞いを描いた究極のシーンだった。馬跳びのシーンは永遠にこれが続くのではとも思わせる長回しで、主人公はそれを望んでいたのではないかとも。馬跳びも博打ごっこもバスと自家用車での追いかけっこも全部ごっこ遊びなわけで、彼らは役割を与えられるという意味でのゲームに自己を埋没したかったのだと思う。冒頭の物語世界外の読経からして、主人公(あるいは主人公ら)の死を宣告しているようなものだ。作中で自分を同定しようとする周囲の人間たちの言葉を否定して否定して否定する。主人公は自己同一性そのものを捨てようとするけど、ラストではやっぱり過去の影が彼を彼たらしめる。最後もやっぱり入水という男女の典型的なゲームに身を任せようとするけれど、女は生き残ってしまった、、言ってしまえばセックスもゲームな訳でだから主人公はフリーセックスに溺れたのかも

レイプシーンの画面外音声も登場人物たちのアイデンティティにとても関わっていたと思う。あのカップルたちは知り合いがレイプされているにもかかわらず徹底して傍観者になろうとする。画面外からの声は、ロングショットの画面と相まってレイプ当事者との距離を感じさせる。それどころかレイプを他人事として楽しむポルノ映画の観客の心境、視線と一致する。傍観者に身を置き、物語の登場人物から抜け出そうとする彼らはまさしく主人公の自己否定に重なるところがあるだろう
丽遥

丽遥