カラン

愛の新世界のカランのレビュー・感想・評価

愛の新世界(1994年製作の映画)
5.0
荒木経惟(あらきのぶよし)の写真と島本慶の文章によって風俗嬢を描写した1993年に刊行された本が原作のようである。しかし、本作『愛の新世界』(1994)は、その原作のとは異なる、鈴木砂羽をアラーキーが撮り下ろしたポートレートが含まれる。さらに、SMクイーンの鈴木砂羽がムチを振るい、恍惚とした表情を浮かべて、肉感的な肢体でポージングするのに合わせて、あるいはそれを誘導するように、いいねぇ、いいよー、と発するアラーキーの声とシャッターを切る音が交錯し、そのエロチックなモデルと写真を撮る者の背後には動画撮影者が旋回しており、同じ方向に回転する映画のカメラが捉えたショットが、本作の冒頭に収められている。

この物々しい雰囲気は尋常ではない。

写真のカメラがSMクイーンをシュートする場を撮影しようと渦を巻くその現場を捉えるべく、自らも渦を描くドキュメンタリーとしてのショットである。この冒頭に続いて、Blu-rayのチャプター上で「Araki’s world」と表記されているシーンが3、4回ある。どれも見事な写真である。しかし、冒頭が最も強度が高いだろう。それは既に述べたところから分かるであろうが、ムチを振るう鈴木砂羽が硬質の椅子に腰掛け、カットして、椅子だけが映り、SMのボンテージファッションの鈴木砂羽がポーズを作り、ヌードが映る。存在と不在のリズムでアラーキーの写真と映画という写真の連続体を混淆させるプロセスとして、そのダイナミックなモンタージュが成り立っているからだ。

映画はSMクラブとデートクラブに勤める若い女2人の、それぞれの仕事の光景と、若々しい友情、またぞれぞれの大切なもの(演劇と結婚)を描き、その一連の動画は、アラーキーのポートレートに簡単に負けてしまいそうだが、なかなか奮闘して押し返す。劇中にプライベートなものだと思われるかすれた映像が挿入される。何よりも鈴木砂羽も片岡礼子も走る。歌う。やる。振動する。長く。朝の渋谷に間に合うように。カメラは2人を追いかけて、静止した写真を乗り越える。2人の身体は溌剌として楽しそうだ。それは演技だから?しかし、スクリーンを通して、それ以上の何を分かることができて、何を分かる必要があるというのか。

このような問いを映画は共有しており、映画が終わってクレジットが流れるときには、劇中で挿入されていたのと同じ鈴木砂羽が提供した8mmと思われる映像が流れる。なんというか、彼女の女優にかける熱い想いが溢れでて、風俗の仕事では交わらず、演劇の仲間のために性病になるまで股を貸す女を演じたことの意味を、そっと、映画は問いかける。宮藤官九郎の演劇は意味不明なものとして提示されていた。そこが重要である。いっそうに性の道具としての身体が剥き出しになる。


Blu-rayで視聴。DVDよりも湿度があり、体温を感じる。
カラン

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