きゃんちょめ

恋するリベラーチェのきゃんちょめのレビュー・感想・評価

恋するリベラーチェ(2013年製作の映画)
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【マクシマリストのリベラーチェ】
リベラーチェはミニマリストではなく、マクシマリストである。「良いものは引き算で作り出される」という発想ではなく、「良いものは足し算で作り出される」という発想をする人が、マクシマリストである。リベラーチェはラスベガスのホテルでずっとショーをやっていたのでエルビス・プレスリーの先輩である。リベラーチェは派手なショーをやっていたエルビス・プレスリーのショーを見た後で、「君のショーにはグリッター(輝き)が足りない。もっともっと派手にするべきだ。そうやってどんどんトゥーマッチに派手なショーをやっているといずれ君のことを嘲笑う人がたくさん出るだろう。しかし、そのような嘲笑は後で、全て、君の口座のお金に変わって銀号に貯まっていくのだから安心したまえ」と言ったらしい。まさにマクシマリストの真髄と言えるようなかっこいい発言だと思う。これほどクールな発言はほとんど見つけることができないと思う。

以下ではこれに関連して、謙遜を批判したニーチェの次の発言について分析してみる。

【ニーチェの「謙遜」批判を批判する】

「自分自身を軽蔑する者は、軽蔑しながらも軽蔑する者としての自分自身を尊敬しているものだ」(ニーチェ『善悪の彼岸』第4章)

→ このニーチェの指摘はどういうことを言っているのか。要するに、「私って本当にこういうところがクソですよね」と言ってくるような人は、「自分のどこがクソであるかをこんなに理解している私って本当に偉いですよね」という自慢を実はしており、内心ではほくそ笑んでいる、というのがニーチェの指摘なのである。つまり、謙遜をする者は自分を捨てているようでいて実は全然自分を捨てられていないというのだ。しかし、このようなニーチェの指摘はむしろユダヤ教的な「愛」の概念にこそ妥当する(=罪人である人が生贄を捧げるとその分だけ神は裁きをやめて下さる)もので、キリスト教の「愛」の概念(=神が自分自身を生贄として罪人である人へと捧げてくる)には妥当しないと思われる。神が自己を捨てたように、ちょうどそのように私が自己を捨てる、というキリスト教の「愛」の概念の典型は、「義人が罪人のために犠牲を捧げる(=神からの「アガペー」が人にもいわば乗り移って「隣人愛」として周囲にも無差別に燃え広がってゆく)」という不合理なものであって、「罪人が犠牲を捧げることでその分だけ実は得をしている」という合理的な愛にしか、ニーチェの謙遜批判は当たらないのではないか。それゆえ、キリスト教を批判しようとしたニーチェの発言は、キリスト教の愛の概念にクリーンヒットしているとはいえず、むしろキリスト教の愛の概念と両立可能でさえあると思う。キリスト教的なアガペーには、自分が実行した捧げ物という行為(=功徳)を誇りにしようという発想が全くなく、むしろ自分は無化されてしまうのである。キリスト教というのはそもそもニーチェの批判がヒットしてしまうような功徳の宗教を乗り越えて生まれたものなのであるから、このような帰結になるのは当然である。

【アガペーと「自分自身を愛するようにあなたの隣人を愛しなさい」は両立するのか】

ところで、「自分自身を愛するようにあなたの隣人を愛しなさい」というイエスの格言があり、これと自己愛的契機のないアガペー概念は矛盾していないのか。矛盾していない。なぜなら、そもそもこの格言は、人に自己愛があるのは端的な事実だと認定しているだけなのであり、この格言は別に「自分を愛しなさい」とは言っていないからである。つまりこの格言は、「アガペーが発揮される前であれば、みんな自分を愛してしまっている。これは端的な事実である。しかし、ここから出発して、アガペーを発揮することで、自分を愛するのと同程度に他人を愛する、あるいは自分を愛する程度以上に他人を愛するように変わっていきましょう」という格言だとして、差し引いて理解すれば矛盾はしないのだ。基本的にキリスト教思想は自己愛が消滅する方向へと進む傾向を持っていることは間違いないのである。「人は放っておいたら自分を愛するもので、他人を愛するなどということは、からっきしありえない。しかし、まことに不思議なことに、自分を捨ててでも他人を愛することが人にはできることがある。これはなぜか。なぜかというと、神からの「アガペー」が人にもいわば乗り移って「隣人愛」として周囲にも無差別に燃え広がっているからなのである。つまり、隣人愛の主体は各個人ではなく神なのである。」という思想あるいは「人間はそもそも邪欲(=concupiscence)の塊である」という人間観がキリスト教の根本にはあるのだ。
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