河

牡蠣の王女の河のレビュー・感想・評価

牡蠣の王女(1919年製作の映画)
4.6
冒頭で「グロテスクコメディ」と言われるように、召使いを除いた登場人物全員が欲望にのみ忠実に動く狂騒的な映画。

主軸となるのは牡蠣によって資本を成したアメリカの富豪の家系であり、その娘含めて生活は全て奴隷のような召使いによって行われている。
召使いはそれぞれ工場機械の一部のように服を着せる、食事を出すなど一つの動作のみを担当する。そして全体を把握している人は誰もいない。そのため、城のような屋敷で目的を案内できる人はいない。機械の一部であり思考を禁止されているため、担当範囲外であり思考が必要な案内を行う人はいない。
父や娘はベルトコンベアに乗ったようにその召使い達によるシステムによって服を着せられ、体を洗われるなど順番に処理されていく。
そして、父や娘の欲望はそのシステムへのボタンを押す行為としておかれており、一度そのシステムが稼働し始められれば止まることはない。屋敷全体が欲望に忠実に動く身体の延長のようになっている。

娘は靴磨きの娘が結婚したというニュースを読むことで、自分よりも位の低い人間が結婚していて自分がしていないことに激昂し父に結婚相手を連れてくるように頼む。マッチメイカーという金を払えば機械的にマッチした人物を供給するという職業があり、父はそこに金を払って結婚相手を買う。マッチメイカーは名家のみを対象としているが、それらの人々のクオリティは価格に見合わないくらい落ちている。

マッチメイカーは王女と反対の性質を持つ人物=王女とマッチする人物として、結婚する気がなくてお金がない男を紹介する。その男は王族のドイツ人であり、一つのプロダクトによって資本家となっていくアメリカに人対して落ちぶれていくドイツの上流階級という構図が明示される。

そして、そのドイツ人の男は結婚相手の視察のために友人を送り込むが、その友人は屋敷内に入ると結婚相手として処理されてしまい、その手違いが認識されないままシステマティックに結婚式が始まり最後まで行われていく。

娘はその相手が思ったような人ではないことに幻滅する。外面を良くするためのボランティアのように内容を伴わないまま富豪の娘達によって行われていた、アルコール中毒者を改善させる活動にその本来結婚相手だった男が事故的に入っていく。その活動は酔っている人をシラフにするだけのもので、酔っている人は時間が経てばシラフになるから、他の屋敷内の労働と同様にそもそも意味がない活動となっている。そして、娘とそのドイツ人は結ばれない恋に涙するも、実際は自分達が既に結婚していたことを知りハッピーエンドで終わる。

ドイツに侵食しつつあった資本主義、近代的な工業、アメリカを皮肉的に描いた映画。さらにこの映画自体がその快楽性に全振りした演出によって観客をもてなすシステムみたいなものとなっている。出来事に対してひたすら鑑賞者の位置にいる父が最後に言う now I’m impressed はこの映画自体に対するものだろうと思う。それによって観客も皮肉の射程内に入っていく。

この監督の映画は頭を空っぽにしたまま気持ちよくハッピーエンドまで連れて行ってくれる機構のようなものだと思っていたけど、その性質を皮肉的に使った映画のように思う。

ただ、見ている間はただただ最高で、肩組みながら1人ずつベンチに倒れ込んでいくシーン、お手伝いの料理吹き飛ばしてそのまま踊り始めるシーン、あと酔っ払いを巡ってボクシング始まった瞬間など、最高のシーンを上げ出したらきりがない。また、そのシステマティックに動く召使い達が富豪達をもてなすものである共に、そのリズムに合わせた揃った動きが映像的にも最高に気持ち良く観客をももてなすものとなっている。

この監督の映画はどれも脳をほとんど使わずに享楽的に見れてしまうけど、そうやって映画側の操作に身を任せて見てしまっている自分に対して自覚的にならないといけないのかもしれないと思った。ソ連のプロパガンダ映画がドイツ表現主義映画ではなく、ルビッチのいる映画の流れの中にあるのもかなり腑に落ちる。
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