せいか

あなたを抱きしめる日までのせいかのネタバレレビュー・内容・結末

あなたを抱きしめる日まで(2013年製作の映画)
3.0

このレビューはネタバレを含みます

01/11、NHKのBSシネマで放送されていたものを視聴。字幕版。
長年ずっと見たいものリストに突っ込んだまま発酵させていたものである。

原題は主人公の老婆の名前を取って『Philomena』である。同名の聖女がいるのでそこを意識したというよりも、本作は実話ベースでその実在の人物の名前もフィロミナなので、そこを意図しているわけではない。

上記したが本作は実話ベースのもので、作中でも主役の一人だったマーティンが書いたノンフィクションである『The Lost Child of Philomena Lee』を原作とした映画となっている。ただ、映画を観るとまるでマーティンの一作目がこのノンフィクション本であるかのような印象を受けるが、実際は数冊(ロシアに関するものなど)の著作を書いてから本作を出版したようだ。

あらすじ:
場所はアイルランド。主人公のフィルミナは若い頃に出かけた先で知り合った男と婚前交渉し、妊娠してしまう。カトリック社会においてそれは許されることではなく、彼女は修道院に閉じ込められ、他の女性たちと共に厳しい下働きに明け暮れることになる。出産も、逆子で生まれようとも麻酔なども用いられることのないままに修道院で修道女の手によって強行されるが、母子ともに健康なまま、その後もやはり二人ともこの場所に繋ぎとめられることになる。休憩時間の間は子供と会うことが許されていたものの、或る日、息子のアンソニーは同じ境遇にあった女の子と共に養子としてとある夫妻の下へと行ってしまった。その後、フェロミナは修道院を出てからは看護師として働いたりしているうちに50年の歳月が過ぎて老婆となった。このときには彼女は家庭を築き、娘を持っていたが、それでも息子のことが忘れられず、娘にも打ち明けていなかった、彼の兄のことを告白する。
娘のジェーンはパーティーの席で働いているときにスキャンダルに巻き込まれたジャーナリストのマーティンと出会い、母の息子を探す手伝いをするように持ち掛け、こうして息子探しが始まる。二人は修道院にまず行くが、養子に関する記録は火事で燃えてしまったとすげなく返されてしまうが、近くのバーでたまたま店員たちからその火事は修道院のでっち上げであること、かつて修道院は金銭と引き換えにアメリカに養子を出していたということを教えられ、二人はアメリカに発つ。そこで息子はマイケルと名前を変えて育てられ、政権下で法律顧問を務めていたほどの人物に育っていたことを知るが、このときには既にマイケルはエイズで死亡していたことも、ゲイだったことも判明する。二人はさらに一緒に養子に出された女性の下を訪ねた後(曰く、養父のほうが特にかなり厳しい人でDVに近いことを受けていたという)、パートナーだった男性の下も尋ね、彼から、余命いくばくもなくなったマイケルと一緒にあの修道院に行って実母であるフィルミナを探していたこと、養父の反対を押し切って修道院に墓地を作ったことを教えられる。修道院は何もかも分かっていた上でなおマイケルにもフェロミナにも嘘を吐き続けていたのである。
こうして二人は再び修道院を訪れ、マーティンは怒りを露わにする中、フィロミナは「誰のことも憎みたくない」と静かに修道院のことを赦し、墓参りをするのだった。そしてこのとき、作中を通してこのことについて本にする、しないというやり取りが繰り返されてきていたのだったが、彼女は最終的に本にしてほしいという意思を固めもする。

修道院のというのか、キリスト教のカトリックのというのか、その規則に従わずに性に関する罪を犯した女に対して始終厳しい修道院の態度になかなか悲しい気持ちになる作品だった。そのために人間性を剥ぎ取り、彼ら・彼女たちは母親も息子も後年になってから引き合わせることさえも放棄したのである。そして最後までそうした対応を修道院側は一切悔い改めることもない。ラストで独善的な怒りに駆られた無神論者のマーティンの気持ちも分かるし、「これは私のことだからあなたが怒ることではない」というようなことを言って自分の判断を下すフェロミナの気持ちも分かるし、なんなら修道院側の態度も分からないわけでもない。とにかくやるせなさばかりが残るものがあった。ラストの断ち切られた親子に何が起きたのかが判明するくだりや、墓前にいる二人を観ているときは素直に切ない気持ちであった。
旅の中で元来信心深いほうだったはずのフェロミナも告解ができなくなったまま教会を去るシーンがあったり、「嘘を吐き続けるか云々」というくだりがあったり、その上で修道院という場所が組織ぐるみで働き続けていた「沈黙」を目の当たりにしたり。本作ではマーティンとフィロミナのやり取りを通してひたすら信仰というものを問う作品でもあったなあと思う。神が沈黙するんじゃなくて、そこに介在する人間がつながりの糸を断っているのだなあというか。そしてそれを罰だとか自業自得だとする社会が片隅にあるのだという。尚且つ、こういうフェロミナのような女性やその子供たちのすれ違いはいくらでも現実にあるのだという闇の深さ。
作中、息子を探すうちに、「息子は私のことなどどうでも良かったのだ、アイルランドのことなど好きではなく、嫌っていたのだ」と思い込んで調査をやめようとするくだりもあったけれど、こういうすれ違いと憎しみの種をばらまいているのが修道院という場所だったというのがまた救われないものがある。キリスト教精神というものがあるとして、それがあるのって決して修道院や教会にあるものというふうに固定されているのではなくて、あくまで個々人の心の中にあるか否かなのだろうなあ。人間性も。独善的な怒りにしたって、フェロミナに付き合ううちに壁を崩して親身になってそこまで共感していた無神論者のマーティンのほうがよほど人間的だし、道徳的(という表現だと齟齬があるが)に私には見える。カトリックというものが悪いわけではなくて、秩序とかも大事だけど、そこに位置するにあたっての組織としての在り方に問題があるというか、これを非難するとカトリック否定になるのかもしれないけど、うーーーーん。まず人間を愛しましょうよと私は思うタイプなので、そこに尽きる。

また、本作では格差社会的なものもいろいろなところで顔を出している。教養的な面や経済的な面でフェロミナが下方にいるなら、マーティンはそれに対置しているところにいるなど。マイケルも彼女のもとにいればそうはならなかっただろう高い地位で活躍していた人物でもあった。そしてこのバディーは作中を通して自分たちが普段接している文化レベルの違いを露わにしていたりもするし、最初はマーティンも彼女の教養の低さを嗤ったりもしていたり、世間ずれが発生しているような箇所も多々ある。
彼女は作中を通してずっとヒューマニズムの人で、他人に感謝して親切に振る舞うことの大切さを説いたりもしていて、確かにそうだなあとは思うけれど、ややもすると相手の仕事を邪魔しているような感じになったり、なんであれば修道院に関しては裏切られたりもしてもいるのだけれど、現代人的ドライさと視野狭窄で他人に対して振る舞っていたマーティンにもそういう態度をやめず、文化・経済的なズレにも臆さずに彼と接し続けたことによって彼との壁は崩していたりとか、やっぱり肯定的な人間性、ある種のポジティブさはあったほうがいいのだろうなあと思ったというか、リターンを期待しないでそういう振る舞いを続ける努力をただ積み重ねるというのは大事だよなあと思った。人間を愛しましょうにやはり尽きるし、本作は結局そこに落ち着く作品なのだと思っているけれども。

本作、宗教批判がどうのとか信仰がとか彼女の境遇がどうのとか難しいことなしに、単純に、憎しみの種は撒かず、他人を尊重しましょう、愛しましょうというテーマがあったと思う。冒頭、若かりしフェロミナが檻のように閉ざされた門越しに息子が連れて行かれるのを見つめながら慟哭していたシーンが印象深いのだけれど、人間同士をそういうふうに断絶してはいけないよねというか。
修道院に限らず、これに関してはマーティンサイドのマスコミにも言えることで、作中、メディアの上司と「記事的な面白さ」に一喜一憂していたりとか、こういうのも人間同士の間に立つ「壁」なのよね。そしてそういう振る舞いになるのって背後には資本主義とか、やはり何らかの社会が聳え立った上で末端に個人が形作られているわけで、もしどこに原因があるかというと、修道院にしろ、その社会に原因がある。そしてそれをただ受けて立つ個人にもあるのだ。

独善的な怒りも、手前勝手な懲罰意識も同じようなものだなあとも思った。だからラストのマーティンの怒りも、修道院が言う罪と罰も似たようなものなのだろう。


作中は過去に関する描写を記憶の中のフィルターに掛けているように、古いカラーのカメラフィルムで撮ったように加工しているか、実際に古い撮影機材を用いてそれで表現しているのだけれど、このやり方が作品の中にうまく溶け込んでいて好感が持てた。近年の取ってつけたような白黒映像を観るたびに萎えまくっていたけれど、これはかなりうまく古い撮影方法と現代の撮影方法を使い分けて劇的に表現できていたと思う。古い荒れたカラー動画が流れた後に現代のカメラで主人公のアップを映し出すシーンなど、現実のいまここに主人公がいるというような錯覚を感じさせていたりして、古い手法を取り入れつつやるってこういうことだよなあと思った。
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