レインウォッチャー

ノスタルジアのレインウォッチャーのレビュー・感想・評価

ノスタルジア(1983年製作の映画)
5.0
世界の見え方自体が少し(だが確実に)変わってしまう作品というものが確かにある。感動よりは畏怖に近い体験。

雨が白壁にうみだす陰翳が、モノクロとかカラーとかそんなものを超越した色彩をもって静かにたたずむ。この魔術的なほど統制された画面を前に、わたしの中にあった既製の美しさの枠組みは意味をなさなかった。この世からちょっとだけ離れたところに存在しているような感覚、とでも言うべきだろうか。

言うまでもなく美しさは概念であって、三次元とは別の(わたしたちの目には見えない)ところにある。映画に限らず音楽や絵画や芸術一般はそれをどうにか目を凝らし、つまみとって、息継ぎのほんの瞬間!人間の感覚器で受信できるよう翻訳する試みの集積だと思うのだけれど、この映画は「半歩」その境界を侵している気がする。

しかし、決してただ一言「難解」などとは済ませてしまいたくない。確かにとてもハイコンテクストな表現が多い映画ではあるし、異言語がもたらす溝・もどかしさを感じずにはいられない場面も多いのだけれど、そこには衒いやトリックの跡はない。
むしろうるさいほど言語が鳴り響いているけれど、それはあまりにも純粋すぎるが故に失われてしまった、いわば星どうしが会話するための言葉で綴られた詩のようだから聴くことができないだけなのだ。

室内の遠く奥行きを感じさせる画角、執拗にシンメトリーを配した構図、ゆっくりと長めに登場人物を追うカメラ…に引き込まれていると、まるで人の夢や精神の神殿の回廊をそろそろと進んでいくようでもある。わたしたちはどこを目指して、いやどこに「還ろうと」しているのだろう。

ノスタルジア…つまり郷愁の念とは、もちろん主人公(=祖国を追われた人であったタルコフスキー自身)の望郷を差しながら、信仰に狂った男ドメニコとの邂逅を経て少し違った意味を帯びてくる。
彼の家の壁に大きく書かれた「1+1=1」、そして「1つの雫にもう1つが合わさっても大きな1つになるだけ」という言葉、そして主人公の周りに散見される母・懐胎のイメージ、全編を貫く水のモチーフから、わたしは「全一性への渇望」なのではないかと考えていた。

人はもともと母の胎内、羊水の中で母体とひとつの存在として安らいでいるが、引き離されてこの世に生まれてくる。やがて死に至る際に気付いたとき、人は神や来世のような超越的な存在に救いを求めるけれど、それは「もう一度何か大きな円環の一つになって安心を得たい」という思いのあらわれなのではないだろうか。つまりわたしたちは誰もが、産道から外界に触れた瞬間からずっと孤独で、終わりのない郷愁に駆られて生きているのかもしれない。

そして、主人公は何度も幼少期の思い出の景色を夢に見るが、その寝起きの傍にはいつも水がある。水は雨や泉など自在に姿を変えつつ、あらゆる器や境界を受け入れてくれる存在であることを思い出す。
水から生まれ、体の中にも水を宿している人間は、やはり磁石のように全なるものを求めて水に惹かれていくのだろう。自らの奥底に潜っていくとき、やがては原初的な帰るべき場所に辿り着く?主人公の憂鬱と倦怠を共にしつつ、わたしにはそんな感覚があった。なんとなく人類補完計画っぽいね。

おそらくわたしはほんのごくごく一部しか、この作品が携えたせせらぎを聞き取れていない。だからこの先きっと何十回だろうと観られる。しかし同時に、いつか戻ってこられなくなる時が訪れそうで、おそろしい。