古川智教

小さな仕立て屋の古川智教のネタバレレビュー・内容・結末

小さな仕立て屋(2010年製作の映画)
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このレビューはネタバレを含みます

映画は真っ白なスクリーンと、そこに映し出される走り、彷徨う登場人物たちの身体と心、その両方の影と、コントラストの強いモノクロームの映像とで恋というドレスを仕立て上げる。「小さな仕立て屋」の恋とはアルチュールの恋のことではなく、映画という小さな仕立て屋の恋のことである。アルチュールと恋に落ちるマリー=ジュリーは舞台後の楽屋で、自分が誰かがわからないと泣いて身を震わせる。なぜかというとマリー=ジュリーには映画の中の設定では舞台女優であること、ならびに実際の映画においても演者であることという二重性により演技だけでしか存在し得ないからだ。だから恋人に恋で、物語で自分を仕立ててもらう必要がある。そして、アルチュールの仕立てた白と黒のドレスを身に纏うと、アルチュールに仕立て屋の仕事を捨てて、自分と一緒にロンドンに行くようにと誘惑する。映画から恋は仕立て上げられるが、恋が映画から引き上げようとすると途端に問題が発生する。最終的にすれ違いながらもアルチュールが仕立て屋を恋人のために辞めることができないのは、辞めてしまえば映画が成立できなくなるからだ。アルチュールがマリー=ジュリーに与えた白と黒のドレスを持ち去るのも映画が自ら仕立てたものを手放すことができないことを意味している。「映画を映画たらしめているもの=小さな仕立て屋であること」を捨て去ることはできないのだ。たとえ映画自らが望んで成就を願っていたであろう恋を犠牲にすることになったとしても。しかし、映画が自ら仕立てた恋=ドレスを取り上げたからといって、取り上げられたものの裸体が映し出されるわけでもない。ドレスのないことに気づいたマリー=ジュリーが暗唱する詩の「世界が始まる以前の顔」を映画は撮ることができないのだ。着る服がなくてシーツを身に纏っているマリー=ジュリーの裸体を映し出すことはできないのと同じで。アルチュールが白と黒のドレスをプレゼントしたときにマリー=ジュリーが着替えるときのようにほんの一瞬だけ鏡に映る裸体を除いては。
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