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グランド・ブダペスト・ホテルのlentoのレビュー・感想・評価

4.0
事実は小説よりも奇なりとは言うものの、それは当然のことだろうと思う。たとえば、「みんな」という人は1人もいないように、事実とは特殊性の集積であるいっぽう、小説とはその反対に一般性を目指すところがある。奇なりと言うのは特殊性を指すため、ほとんど何も言えていないに等しい。

また、ここでいう小説を、フィクション(物語・虚構・寓話)と言いかえてみた場合、ノンフィクション(事実)が最終的に目指すものが、特殊から一般へというベクトルであるいっぽう、フィクション(虚構)は、一般から特殊へ至ろうとする。

そして、ノンフィクションの描く特殊性が、それだけで何らかの力をもつのとは反対に、フィクションの描く一般性とは、出来事を平面的に羅列(られつ)するだけでは意味がなく、立体的な象徴性がなければ力を持ち得ない。

この『グランド・ブダペスト・ホテル』が、大人可愛い雰囲気の奥に、そっと毒を含んでいる理由は、寓話的に(フィクションとして)ヨーロッパ文化の断絶に触れているからだろうと思う。



本作では、主に1932年・1968年・1985年の3つの時代を描きながらも、話の中心となるのは1932年で、これはつまり、第二次世界大戦以前のオーストリア=ハンガリー帝国(ハプスブルク帝国)の栄枯盛衰(えいこせいすい)を思わせる。

伝説のホテル・コンシェルジェであるグスタヴ(レイフ・ファインズ)と、彼を愛し支持する富裕な客層は、当時のヨーロッパ的な教養文化を支えた人々のようであり、彼の意志を継承していくゼロ・ムスタファ(F・マーリー・エイブラハム/トニー・レヴォロリ)の出自が移民であることも、オーストリア=ハンガリー帝国が多民族国家であったことと符牒(ふちょう)が合う。

また、マダムD(ティルダ・スウィントン)の性格描写も、19世紀的なヨーロッパ帝国主義の没落と終焉を思わせるところがある。彼女は「裕福だが年老いており不安げで虚栄心が強く軽薄で飢えている」と劇中で描写される。

彼女の息子であるドミトリー(エイドリアン・ブロディ)が、殺し屋を雇ってグスタヴを追う展開もまた、オーストリア=ハンガリー帝国の皇太子が暗殺されたサラエボ事件を思わせ、同事件をきっかけに第一次世界大戦が起きている。

ドタバタの活劇のあとに、グスタヴはドミトリーからの手を逃れ、マダムDから『少年と林檎』に象徴される文化的な遺産を継承することになる。そして、第一次世界大戦によってオーストリア=ハンガリー帝国が崩壊したように、劇中でもズブロフカという国は消滅してしまう。それはファシストの台頭によるものであり、ナチ政権そのもの。

そして、コンシェルジェはファシストの凶弾に倒れる。

ナチ政権誕生後に、ユダヤ系を中心とした様々な文化人たちが、ファシズムの手によって殺されていったように。やがて、ファシズムも倒れることになるのものの、1968年と1985年に描かれるグランド・ブダペスト・ホテルが、かつての栄華とは裏腹に、ほとんど人の訪れない僻地(へきち)と化しているように、第二次世界大戦以降、ヨーロッパ文化も同じ運命をたどることになった。

コンシェルジェの最期は、当時のドイツに生きた文化人ヴァルター・ベンヤミン(1892-1940年)をどこか思わせ、彼と往復書簡を交わしていた、哲学者で音楽家のテオドール・アドルノ(1903-1969年)が戦後に書き記した言葉を、僕は思い返すことにもなった。

Nach Auschwitz ein Gedicht zu schreiben, ist barbarisch.

アウシュビッツ以降、詩を書くことは野蛮である。
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