このレビューはネタバレを含みます
田中泯氏は、動きと存在感がすさまじく、やはりすごい踊り手だなと思った。
この映画は舞踏劇であると同時に、視線の劇でもあるのかな。桃太郎のように川を流れてくる生まれたての”男”を、眺める狂言回しである七人の小人(中高年男性たち)の視線。”女”(”男”の母親)の出産の場面を眺める七人の小人達の視線。”女”が少年である”男”と燃える木の周囲を回りながら交わす視線。土砂置き場をよろめき歩く”男”を、嘲るように眺める小人たちの視線。”女”が小人達を官能的に誘いながら廃墟の中に消えていくのを、無力に見つめる”男”の視線。
この映画の中では、見る、見られるという関係が濃厚に描かれ、それによって互いの力関係が強烈に描かれるのだが、基本的にそれ以上のことは起こらない。唯一の例外は、"男"が"女"を雑踏の中で捕まえ、担いで走る場面か。だが、それ以外の場面では、異様なほどに、ただただ見るだけだ。だが、それでも、というより、それだからこそ、それまで一方的に裸を見られるか、無力に見つめるしか出来なかった”男”が、沼に沈んでいく傷ついた小人たちをスーツ姿で見下ろすとき、力関係の劇的な逆転が強く印象に残る。
視線の劇としてもう一つ面白いのは、新宿の街のど真ん中で、素っ裸の田中泯が道を這いつくばるシーンを眺めている、通行人の視線だ。もの珍しさにカメラ(スマホ)を向けているものもいる。劇中の視線(”男”に向けられる視線)と現実の視線(ダンサー・田中泯に向けられる視線)が、ともに、それ以上のコミュニケーションが生まれない視線の劇として機能しているのは興味深い。そしてそのことによって、劇中の”男”と”ダンサー・田中泯”との境目が次第に消えていく。フィクションと現実の境目も消えていく。不器用に、不気味にのたうつ”男”が、そして無力に眺め、笑い、死んでいく小人たちが、人間の生の一側面を表現していることが、強く伝わってくる。
衣装も、この映画では、非常に象徴的に扱われているように感じる。田中泯が完全な裸になると無防備さが際立つ。スーツ姿は社会性と力の象徴。オムツ姿は(撮影の都合もあるのだろうが)子供の象徴だろうか。最後の場面で、雷に打たれた”女”(母親)が変化した姿である枯木を抱えながら、歩行者天国で踊る”男”がオムツ姿なのも、彼が”女”の子供だからだろう。小人達は、川で水遊びをしている時も、海岸で波にさらされている時も、廃墟で踊る時も、スーツ姿だったり、下着姿だったり、野良着だったりと、まるでその場面に似つかわしくない格好をしているのだが、それは、その場面も、彼ら自身も現実ではない、象徴的な存在でしかないことを示唆しているように思える。
この映画は、終始異様だ。しかし、その異様さは、現実の誇張に過ぎず、現実から完全に乖離しているわけではない。だからこそ、鮮やかに現実を浮かび上がらせるという側面がある。無防備で無様な裸の田中泯と、スーツ姿でスタイリッシュな田中泯の振れ幅は、一人の人間が状況に応じて多様な姿を晒すことを見事に表現している。