光好尊

インセプションの光好尊のネタバレレビュー・内容・結末

インセプション(2010年製作の映画)
5.0

このレビューはネタバレを含みます

「今現実だと思っている世界は本当は夢なんじゃないか」、この問いは、デカルト以降の認識論を反復する。現代では、「水槽の中の脳」の思考実験が有名だ。人間は、一度世界を懐疑し始めると、論理的に無限後退に陥る。この世界は夢だ、と思ってる夢、と自覚している夢、をメタってる夢。

さて、ユングは、「神秘体験は神秘現象を意味しない」と主張する。神秘的な体験は、神秘的な現象の「存在」を直ちに意味するわけではない。同様に、「世界体験は世界の現象の存在を意味しない」。夢の存在は「世界体験」の存在であって、「現象」の存在を意味しないのだ。

重要なことは、一度「この世界は夢かもしれない」「この世界は夢だ」というアイデアを差し込まれると無限後退が「インセプション」し、「体験」と「現象」の区別がつかなくなることである。カントに言わせれば、我々はその「体験(認識の総体)の仕方」の枠組みを考察できるに過ぎない(認識論的転回)。

蛇足だが暗喩的に、『インセプション』が夢や認識論を問うているように見えて(上階層)、実は映画的享楽(映画のための映画)に耽っているだけかもしれないという再帰的な捉え方ができるのもおもしろい(下階層)。

カントやヘーゲルからバトンを受け継いだニーチェの認識論の要諦は、「事実など存在しない。あるのは解釈だけだ」。つまり、通例「事実」と措定されるのは「解釈の総体(総意)」に過ぎない。しかし、事実そこにありありと現象があるように見える。この現象、事実の裏づけの不確かさ(上階層の揺れ)に気がついたとき(インセプション)、無限後退に陥る。これをニーチェは虚無主義と呼んだ(「現実」が「夢」のように見える)。人が「曖昧さ」という「夢」を選択したとき、「虚無」に陥るのである。そして、ニーチェは晩年この「曖昧さ」を受け入れて「より以上のものへ」と欲し、またそれが不能とわかっても「尚も」上昇を欲する「力への意志」を説いた。

コブは最後、最上階層、つまり現実に戻ったように見えるが直接的なシーンはない。よって、第6階層で子どもたちと顔を合わせることを欲したと捉えることもできる(でもコブはコマを気にしなかった)。

確かに、「夢」を欲するだけなら、キリスト教という「夢」を「インセプション」し、「キック」されて最後の審判を待てばいい。あるいは、VRとドラッグでハイになればいい。

しかし、(現実も大概だが)そんなものは「出鱈目」だとクリストファー・ノーランは言っているように見える。
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