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バーフライのyoshiのレビュー・感想・評価

バーフライ(1987年製作の映画)
3.8
一人でいるとロクな事を考えない。自分がマイナス思考なのは自覚している。20歳そこそこの若い頃、この映画の主人公と似たような生活を送っていた時期がある。酒浸りで、夢物語を語り、他人と口論の末に喧嘩…。それを救ってくれたのは現在の妻であり、感謝している。この映画は大人向けファンタジー。マネしてはいけない。

破滅願望を抱えている人の多くは、ネガティブであるという特徴を持っている。
何をしても良いイメージが持てなかったり、悪い未来ばかり想像してしまい、最終的には死に向かって破滅していくことが一番楽な方法であると考えてしまう。

そうした「破滅型」(カッコ付けた言葉なので嫌なのだが、他に言葉が見当たらない。)の人間は、大概が心が孤独なのである。
愛情を傾けられる人との出会いや、感動的な体験や文化に触れ、外的な要因で幸福感を得ると、自分中心の生き方から脱却し、社会的な生活を送ることができる。

いかんせん、この映画の主人公は、そのドン底からの脱却を自ら拒否するのだ。
困ったものである。

ロスの場末の酒場ゴールデン・ホーンには様々な人間がたむろしている。
感性の鋭い若き作家ヘンリー・チナスキー(ミッキー・ローク)もその中の1人。

80年代この頃のロークは、とてもセクシーでミステリアスな雰囲気を持っていた。
この作品では、そのセクシーなイメージの一掃を図る。
贅肉を増量し、脂ぎった長髪と無精髭に染みのついたボロボロの衣服を纏い、原作者の「酔いどれ詩人」チャールズ・ブコウスキーの分身を演じる。

彼は社会の歯車に組み込まれるのを拒んで酒に明け暮れる毎日。
気がむけば、ポケットに突っ込んだクシャクシャの紙を広げ、思いつくままペンを走らせて、散文詩を書いている。

若い頃のロークの演技の特徴は、ナルシシズムたっぷりであること。

自らの繊細さを酒で麻痺させて詩を書いたと言われるブコウスキーに対して、ロークは世捨て人であるキャラクターの設定に、自分を重ねている。
簡単に言うと、酒ではなく自分に酔っているように見えるのだ。
ロークが演じると、詩は売れそうにないな、と思えてしまう。
繊細な感性を持つ人は自分を守る。
ロークの演じるヘンリーは、自己愛の果てに世間から相手にされなくなったホームレスに見える。
詩人としては、少々嘘くさいのだ。

しかし、その言動は正にバーフライ(バーにたかる蝿)であり、アル中としての演技はリアリティがある。
こんな感じで昼から飲んでいる呑兵衛オヤジいるよなぁ…と思えるのだ。

酒を呑み、夜勤のバーテンのエディ(フランク・スタローン)と殴り合いばかりしている毎日。
酔っていても、俺は強いぜ!という自己陶酔アピール。
女のケツばかり追って振られるエディより、自ら社会を捨てた俺の方が、よっぽど高潔な人間だぜ!とばかりに喧嘩を売る。

そんなある日、ワンダ(フェイ・ダナウェイ)と知り合う。

彼女も人生に幻滅感を抱いて、酒に溺れる毎日だった。
恋とは無縁の2人だったが恋におち、ヘンリーの汚いアパートで、共同生活を始めるようになる。

「職業は?」「飲むことよ」
この一言でヘンリーはワンダを気にいる。

ワンダを演じるのはフェイ・ダナウェイ。
ご存知、アメリカンニューシネマ以降の大女優。しかし下手に飾り立てずに、年増女の侘しさをリアルに演じる。

女性らしく外見を気にしているらしいのだが、生地の良いスーツはヨレヨレ。
おそらく元キャリアウーマンの設定か?
ほとんど化粧をしていない顔と乱れた髪を見ると、今は働いていないだろうことが分かる。
馴染みの酒屋でツケで酒を買おうとすると、店主がある男にカードを使って良いか、伺いの電話を掛ける。
どうやら金持ちらしい昔の男にタカって飲んでいるワンダ。
男はワンダを傷ついたのであろうか?
その男の立場と金に義理立てをして、最低限の格好をして外出しているのだ。
ヘンリーのアパートに向かう途中、畑のトウモロコシを盗むセコさといい、それなりに人生を重ねてきた哀愁と生活臭が溢れ出る演技は流石である。

ワンダのチャームポイントは、演じるダナウェイ同様、年齢の割に綺麗な脚だ。

そんな自堕落で成り行き任せのヘンリーの生活を調査する私立探偵(「イレイザーヘッド」のジャック・ナンス!)の姿があった。

ご近所の夫婦喧嘩に、止せばいいのに口を挟むヘンリー。
それを見た探偵は根の腐った人間ではないと報告したのだろう。

ある日、その依頼主のタリー(アリス・クリッジ)という女がヘンリーの前に現れる。
彼女は雑誌のオーナーで、彼の詩の才能に目をつけ、現在の悲惨な状況から脱け出させ、執筆に必要な資金と環境を提供しようと申し出てきた。

こんな旨い話があるものか?
お嬢様然とした白い服を着た若い美人が、一体どこで読んだのか、呑んだくれの落書きのような詩の才能に惚れる?

ココがファンタジーと言った所以である。
確かにヘンリーの詩は客観的には、良いものなのかもしれない。
しかし唐突なタリーの登場は、掃き溜めに鶴であり、少々現実味に欠ける。

この映画で唯一登場するマトモな社会生活を営む人物であるタリー。
彼女はいつの間にかへンリーに愛情を抱くのも嘘くさく、やはりファンタジーである。
タリーの愛は、雨晒しの捨て犬を拾うのと同じで、私が面倒見てあげると言わんばかりのヘンリーへの憐れみだ。

所詮、住む世界は別なのだ。
タリーが住むアップタウンで、カップルがいちゃついて運転し、交通妨害しているのに腹を立てたヘンリーは、タリーの車に彼女を残し、いつものように喧嘩を売る。
青い空、アップタウンの鮮やかなビルボード。タリーのピカピカの高級車。
それらを背景に若いカップルに喧嘩を売るホームレスのような格好のヘンリー。
色鮮やかな背景の中の灰色。明らかに浮いている。
このワンカットが住む世界の違う人生を、1つの画面に収めていて、とても美しい。

ヘンリーにとっては、現在の生活以外考えられず、タリーから前渡し金として受け取った500ドルをバーの仲間に酒をおごってつかい果たしてしまった。

バーに現れたタリーは、自分に敵意をむきだしにするワンダとつかみあいの大喧嘩の末、2人の前から去っていった。

ワンダとなじみの酔客とともに酒をくみ交わし、エディに喧嘩を売り、今日もヘンリーの夜が更けていく…。

この映画にはドギツイ暴力描写や性描写は描かれない。事件性が無いのだ。
その分、若い人が見れば退屈かと思う。

映像がとても美しい。
撮影監督のロビー・ミューラーの夜の映像は美しく、バーの内部照明が暖色を使っていて居心地が良い遊園地に見える。

それに反してバーの外界は、特に昼間は白や青を使っているのか、輪郭線がはっきりと見え、社会は厳しいと思える。

現代の社会生活に疲れ、傷ついた酔っ払い達の最下層の生活は、傷の舐め合いであり、観た人は「自分も気のいい仲間に囲まれ、酒で嫌なことを忘れたい」とも思う。

しかし現実問題、救いの無い映画なのだ。
ヘンリーはバーから巣立つことなく、呑んだくれる。近い将来、彼の行き着く先は病院だ。

この映画が教えてくれるのは、ブコウスキーが自分の墓石に記した「真似するな」である。
幸せな社会生活を営みたければ、真似するべきではない。

ブコウスキーは詩人である。
彼について、ここでは詳しくは語らないが人間の魂の奥底に眠る感動を引き出す創造行為には、産みの苦しみがある。
アーティストと呼ばれる人間が、酒や麻薬や何かしらにすがるのは、心の奥底を覗く為だろう。
幸いにもブコウスキーは多くの詩を残した。その繊細かつ反抗的な生活の描写は、大袈裟な比喩も少なく、共感しやすい。

しかし大概のアーティスト気取りの人は、創作行為を忘れて快楽に浸ってしまう。

私が酒浸りだったのは、社会に出る前だ。
若い頃の反抗的な私は、ヘンリーのように社会の歯車になることを嫌っていた。
いや今思えば、大人になること、社会に出ることが怖かったのだ。
この映画もその辺りで劇場で観た。

ただ、いい歳大人になった現在も、やはり心は傷ついているので、毎晩晩酌して、1日を忘れるようにしているが、時折、私の中のヘンリーが顔を出す。

いや、誰でも心の中にヘンリーかワンダを飼っているのかもしれない。
その点は大いに共感する。

この映画は大人向けのファンタジー。
ブコウスキーの言う通り、そのままマネしてはいけない。
ゆえに是非観て欲しいとは言えない。
ハマると危険な映画である。
…でも好きなんだなぁ…この世界観。

追記
冒頭と最後に流れるHip Hug-Her / ブッカー・T&ザ・MG'sのヨレたギターが格好良い。
個人的にはブコウスキーの詩の影響を受けただろう、私の敬愛する「酔いどれ詩人」トム・ウェイツの曲も使って欲しかった。
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