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7番房の奇跡のKKのレビュー・感想・評価

7番房の奇跡(2013年製作の映画)
3.8
「アイ・アム・サム」みを感じた。

知的障害者の父と幼い娘。過去に何があったかは不明だが、母親はおらず、父と娘2人で暮らしている。

正直、知的障害者の親をもつ子供って、相当苦労するんだと思う。自分はそういう経験はしていないから憶測にすぎないけど、現実問題として知的障害者のシングルファーザーって困難が明らかに多いと思う。
この映画を父と娘の愛情の物語として美しく見ることもできるけど、実際にはそんなに簡単ではないような気もする。
父親が知的障害者。それだけで子供は、幼い頃から大人になるしかなくなる。イェスンも父親を支えるために、同世代の子供とは比べ物にならないほど、大人びている。言葉遣いも空気の読み方も、他人との関わり方も。
子供が子供らしく過ごす時間って、子供が幸福に生きるために必要な時間だと思う。親に対する、物理的、身体的、金銭的、感情的な支援をしなければならなかった子供って、その時間がなかったわけだから、大人になって何らかの問題が顕在化してくる。それが、今世の中で言われている「毒親」とかって状態になってしまっている。
親への金銭的、身体的、感情的な支援は、子供は親のために本心からやっている。子供は親を愛しているから。親を大切に思っているから。でも、それを利用して子供の人生を奪う親がたくさんいるのも事実なんだよなぁ。

ヨングとイェスンの関係も、親と娘の愛情が健全で相思相愛に見えるから美しい関係に思える。だけど、イェスンがその経験によって親以外の他者との人間関係を作れなかったら、それはまた別の問題が生じてしまうんだろう。
と、ここまでは知的障害者とその子供という視点で思ったことを書いてきた。こういう作品は、真実の中の綺麗な部分だけにフォーカスして24時間テレビ的な美談になってしまいがちだし、実際見てる途中まではそんなやや穿った見方をしてしまっていた。刑務所への侵入方法も刑務所の仲間があまりに優しいのも、作品としての「作られた幸せ」を見せられている感じがした。
だけど、ラストのヨングとイェスンの最後の別れのシーン。流石に泣いた。あれは泣く。
どうしてそんなに感情を動かされたのかを考えてみた。そこには、ヨングの中での、建前と本音と、本音のさらに奥にある本音が次々と見えてきたからじゃないかと思う。

最初からヨングが一貫して求めていたのは、イェスンと一緒にいること。事件の容疑を書けられたときも、刑務所にいるときも、常に求めていたのはイェスンと一緒に住むこと。それは刑務所の中で一緒に住むことになってもヨングには関係なかった。これが第一の建前。ヨングの本心ではあるけど、階層の一番浅いところの本心。

その次の本音は、イェスンに生きていてほしいという思い。警察庁長官に脅しをかけられて、自分の命と引き換えにイェスンが無事に生きることを選んだ。それは、ヨングがイェスンと一緒にいることよりも、イェスンがたとえ一人でも生きていてほしい、自らの望みよりも、イェスンの幸せを願ったヨングの本音だった。

そして最後のシーン。心の一番奥底にある本当の思い。「死にたくない」「イェスンといっしょにいたい」「ごめんなさい」泣けた。死の直前になって現れたヨングの本当の思い。周りの状況も、イェスンの幸せも、何もかも忘れて、ヨングがただ1つの思いが爆発した。その感情の爆発は、見るものの気持ちを揺さぶってくる。死の直前になって出てきた「生きたい」という感情は、心の奥底にある一番強い感情だから。
その最後の望みを叶えるために懇願するヨングの姿と、これからヨングに何が起こるか知らないけどただ事ではない何かが起こることを理解しているイェスン、そしてそれを見ている刑務官。別れのシーンはあまりに泣けた、、、
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