チッコーネ

名前のない女たちのチッコーネのレビュー・感想・評価

名前のない女たち(2010年製作の映画)
1.5
『AV女優』というシリーズ本があった。
その存在は世の隅々まで浸透しているのに、全く発言権の与えられていない女性達の声をかたちにした、画期的かつニッチな一般向け読み物であり、僕は非常に興味深く愛読していた。

まとめているのは永沢光雄というライター。
流れ流れて、エロ業界にたどり着いたという諦念が、文章の端々から伝わってくるタイプの物書きだった。
くぐり抜けてきた修羅場で培ったのであろう、慈愛に満ちた眼差しで女優たちを見つめ、時に父親のように困惑の体で、過激な発言の数々を纏めていく。
人によっては古臭さや偽善を感じかねない文体だが、それでもプロとして、「一本筋を通したスタイル」を感じさせてくれたので、僕は好感を抱いていた。

このシリーズは、パート2で終了してしまった。
永沢光雄が亡くなったためである。
もっと続きが読みたかった、と思っていたので、書店で『名前のない女たち』を見つけたときは、驚いた。
ライターは別人だが、明らかに『AV女優』シリーズの後釜を狙う雰囲気が漂っていたからだ。
違っていたのははじめから、「企画女優へのインタビュー」というコンセプトを持っている点である。

企画女優とは、高額のギャラを稼ぐ「単体売り可能な」人気女優ではなく、その他大勢のひとりとして脇役や、過激なコンセプトの「企画もの」に挑む、B級AV女優のこと。
業界に従事する女性達の本音を、さらに突っ込んだかたちで掘り起こせそうな企画ではある。
果たしてその内容は、こちらの予想を、さまざまな意味で裏切ってきた。


■AV女優の肉声を収集した、ふたりの男

『名前のない女たち』の著者は、中村敦彦というライター。
永沢光雄の確立したスタイルからは、かけ離れた文章を書く人だった。
何よりも視点の、底意地が悪い。

AV女優へのインタビューをまとめる人間、そして読む人間は、そこに何を期待するのだろうのか。
恐らく、以下の二点に集約されるのではないかと思う。
 「なぜAV女優になったのか?」
 「そこで何を得て、何を失ったのか」

AV女優たちから返ってくる言葉は、信じられないほど凄惨な体験の記憶だったり、呆れるほど何も考えてこなかった女の放言であったりと、さまざまなのだが、共通しているのは彼女たちの置かれている立場。
自覚があるにせよ、ないにせよ、不特定多数の目に向け、自らの性器を曝すという作業には、それなりのリスクが伴っている。

永沢光雄も中村敦彦も、基本的にはこの2つの質問を軸にAV女優との交流を図っていくのだが、受け止め方、吐き出し方は明らかに異なっている。
永沢はAV女優に対し、畏敬と憐憫の入り混じった複雑な思いを抱きつつ、ネガティヴな私情を封じ込める自制心を、常に働かせていた。
女たちのふてぶてしく反抗的な態度を、なぜか自らの落ち度として背負い込もうとする時さえあったのだ。
彼なりの心意気を以って、「AV女優たちの本音」という最後の砦を守り抜こうとしたのである。
性の商品化という荒涼とした素材に対し、身を挺してフィルターの役割を果たすことで、読む者を脅かさない、どこかフィクショナルな世界を作り上げたのだ。
このスタンスがあったからこそ、読者はAV女優たちの言葉に、素直に耳を傾けられたのである。

対して中村敦彦は シニシズムに満ちた視点でAV女優を眺め、疑念をストレートに投げつけ、暴いた欺瞞を克明に記そうと試みる。
その透徹な態度は時に女たちを激怒させ、取材そのものを破綻させてしまうのだが、その様子さえ、ドキュメンタリータッチで容赦なく記録し、発表していく。
2人の物書きの態度には、演歌とパンクぐらいに大きな隔たりがあった。

僕ははじめ、中村敦彦のスタンスに不快感を憶えていた。常軌を逸している、と感じたのだ。
しかし彼が人選し、インタビューを試みたAV女優たちは、現代の百鬼夜行と呼んで差し支えないほど、おどろおどろしい運命を背負う女たちばかりだった。
その悲惨な過去や、体験をさらに読み進みたくなる好奇心に抗うことは難しく、いつしか僕は『名前のない女たち』の虜になっていた。

女が裸にさえなれば喜ばれ、金になる時代はとうに過ぎ去っている。
過激化の一途を辿る飽食のポルノ産業に、中村敦彦のスタンスはよく適応していたと思う。
彼が永沢光雄を意識していたのかどうか定かではないが、180度異なるスタイルを貫かなければ、『AV女優』シリーズを超えることは、決してできなかっただろう。
かように優れた2人の物書きを引き寄せるAV業界とは、現代の「文学の現場」といっていい。
例え携わる人間ひとりひとりに、その自覚はないとしても……。


■切り拓かれた新境地は、無に帰した

上記のように偏愛した『名前のない女たち』が映画化されると知って、ぜひ鑑賞したいと思っていた。
ようやく観ることができたのだが、残念ながら、その出来には落胆してしまった。
『名前のない女たち』に収録されたインタビューは上手に脚本へ取り入れられていたし、主演女優のふたりもよく頑張ったと思えるのに、なぜだろう。
それは中村敦彦の貫いた、孤立無援の厳しさがが伝わってこなかったからである。

監督の佐藤寿保はピンク映画を主戦場として活躍してきた人物で(観たことないが、ゲイものも撮っているらしい)、そのアーティスティックなスタイルはピンク映画の範疇を超え、評価を受けているという。
しかし本作からは、ジャンルの壁を超え普遍的な感慨をもたらす、鬼才の手腕というべきものが、感じられなかった。
一般映画としてAVの世界を描くチャンスに、なぜこのような手緩い解答しか導き出せなかったのだろう。
保守的な配給会社に敬遠されることを恐れたから?
それではあまりに、観衆を見くびりすぎている。
大衆は皆何食わぬ顔で、ハードコアポルノの世界に、日常的に触れている。
その裏側を堂々と、広く知らしめる機会に自らの表現力を最大限発揮しなくて、いつ発揮するのだろう。

本作で最も印象に残ったのは、反目し合うふたりのAV女優が打ち解けあい、裸でじゃれ合うシーンだった。
過酷な現実をくぐり抜けてきた女性2人が、一瞬垣間見た、美しい桃源郷。
世に「淫売」「変態」と罵られ、蔑まれる女たちに通う真心のようなものが伝わってくる。
しかし敢えてそこに踏みとどまろうとするのは、永沢光雄の美学だ。
中村敦彦はその「美しき誤解」に挑み、新境地を開拓した物書きなのである。
これでは彼が、あまりに浮かばれないと思った。

本作の主人公、ルルのモデルになっている木下いつきというAV女優は、
アニメ好きでもないのに、AV女優として大成するため「オタク女」を装い、それなりの成功を収めた上で逆さ吊りにされ、体中の穴という穴にザーメンを流し込まれ、無抵抗の状態で顔面を腫れ上がるまで殴打され、その一部始終を記録され、販売された。
しかし映画には、その地獄が一切描かれない。

事実は小説より奇なり? それではあまりに、寂しすぎる。
映画の持つ可能性を見くびりすぎている。
何が彼女の人生をそこまで追い込んだのか? 
その背景にあるのは個人的な運命なのか、それとも社会全体が抱える問題なのか?
この陰鬱な問いかけをリアルに受け止めるには、やはり原作を読むしかない。

追記:『名前のない女たち』は現在、パート4までは文庫化され、書店で入手可能である。
ハードな内容なので、精神的に落ち気味の場合は、手を出さないことをおススメするが、たまに心底笑えるインタビューもあり。
僕はパート2に収録された「淫乱女/水野礼子」の稿が大好きで、たまに読み返しては大笑いしている。

(鑑賞時のブログより一部改稿して転載)