せいか

収容病棟のせいかのレビュー・感想・評価

収容病棟(2013年製作の映画)
1.5
1.28、GyaOで視聴。前後編合わせて4時間近く。中国の精神病病棟が舞台のドキュメンタリー映画。檻の付いた建物の中で社会に存在を無視される人々を映し出したもの。カメラに映される彼らの多くは分かりやすく狂ってる訳でもなく、建物の中である種の秩序をもって生活を送っているんだけど、確かに何かがずれているのが延々映し出されてて怖い。でも、社会との地続きと断絶も感じる不安定感というか。
後編のほうがいかにも精神疾患の度合いが深い人々が多く登場してはいる。
帰りたいと訴える人々が何人も出てくるけれど、さて何をもって正常となったとこの場所では判断されるのかということの曖昧さとか、この場所の鬱屈から抜け出したいのは分かるけれどそれでどうにかなるのかという曖昧な希望や帰巣本能の行き場のなさがまた息苦しいし、そういうものって外の世界にもいくらでもあるからやりきれないというか。
少なくとも、これを観て、どこか心が温かくなる的なこととか、彼らに親しみを感じるみたいな上辺ペラッペラ丸出しのフレンドシップぶった、持てるもの故のたいへん気持ちが悪い開明的な態度みたいなのには私はなれないんですが(一部感想で見かけてぶったまげた)……。これが現実としてあることの気持ちのやり場のなさばかり感じるのやら、この虚しさを結局のところただ肯定するしかないというのはあれども。

昼にも触れてたけど、チェーホフの『六号室』を最近読み返してたりもしたんですが、あれなんかは精神病病棟の内と外を描く中でその地続きの面、果たして外の人間がまともといえるのか、何が違うのかというのにも触れてた吐き気たっぷりな作品なんですが、こっちはそういう明確な比較はしてはいない。
ただし、後編の後半になると退院した患者の後を追って撮影している(が、後述するようにそこから見えるのはやはり追い詰められた貧しさである。家も環境も周辺も何もかもが寂れきり廃れきり獣の巣のようで、彼は居場所があるけれどないし、夜の何もない町をさまよい歩きもする)。

映画『収容病棟』公式サイト https://moviola.jp/shuuyou/
「患者たちは多種多様で、暴力的な患者、非暴力的な患者、法的に精神異常というレッテルを貼られた者、薬物中毒やアルコール中毒の者、さらには、政治的な陳情行為をした者や「一人っ子政策」に違反した者までもが、“異常なふるまい”を理由に収容されている。その様子からは治療のための入院というより、文字通り「収容」という言葉が正しく思えてくる。」
というドキュメンタリーなので、単に精神病の人々を映してるというだけではなくてもっとでかい存在が持っている病のようなものを捉えた作品なんですが、とはいえ、やはり上述の通りどこかずれている感じがある人たちばかり映すので(ここにいるから病むんだ、外に出たら頭もきっとはっきりするんだというような発言もあるが)、あまりそういう理不尽な収容、無理矢理な収容というものを私の目には捉えきれない。場所がそもそも病んでいる、おかしさがあるというのは分かるのだけれども。
日本公式の説明文には「何が異常で何が正常なのか、そんな境さえも消しさって」ともあるけれど、そこまであやふやにしたところを掬い取っているとも思えはしなかった。それだと綺麗に表現しすぎというか。それよりも、精神疾患とか関係なく、場所も関係なく、どん詰まりに生きる人々の境界の曖昧さみたいな話として幅を狭めて捉え直すのならそれは分かる。

画面に映る人の中には貧しさを吐露し(とにかく本編内では貧しさが何よりも全体を漂っている)、眠ることはタダだからそれだけはできると虚しく目をつむる人もいたり、何をしたというわけではなくここへ連れてこられるんだと語る人がいたりで、基本的に彼らのこの檻の中での日常を黙々と映していることが多いのだが、なにはともあれ閉塞感が観ているこちらにも苦しい。夜の閉じ込められたら感じもさることながら、昼の、中庭をぐるりと囲む外廊下が檻があっても明るく開放的なのにやはり檻は檻であるところとか、かなり独特な雰囲気を醸し出している。

あと、食事のときに食器を出す辺りのところに居る残飯処理の男の皿にジャバジャバと中身が流し込まれてそれを啜りながら食べているのが印象深かった。生理的嫌悪というか、なんというか、この場所のどん詰まり加減を端的に表していたなあと思う。(ちなみに全体にわたって衛生環境は劣悪である。)

たぶん撮影に当たって被写体たちがカメラを意識しない、し過ぎないようにそれだけの時間をかけて馴染んできたのだろうけれど、最初から最後までほとんど被写体たちは各々やりたいようにやっている(感じは少なくともする)。
そういう意味であまりにもテーマに対して被写体たちが自然過ぎてむしろ作ってるのか?と観ていて思う箇所も多かったくらいなのだけれども、たぶん、そこは撮影する側の腕の見せ所ゆえだろう。

深夜に騒音被害出してくるタイプの精神病者がいたりしようと収監されている人々はそれを無視したりする描写もあるけれど、それに慣れるしかない空間であることとか、それでも存在を無視されること(その孤独)とか、こうした上で成り立つ病棟内の独特の秩序の歪さが観ているこちらの心をえぐり込んでくる。こういうところも形がちょっと違うだけで一般社会の縮図的描写といえるのかもしれない。
「マトモ」というのは私は幻想に近いかそれもまた一つの強制力のもとで健全さの仮面としてあるようなものだと思うけど、それにしても改めて、マトモとはなんだろなとは観ながら思いはした。ドキュメンタリーに限らず、精神病系の創作物などでも考えることが多い点なのだが。

家族が面会に来てもちぐはぐにしか繋がれず、患者同士でも一緒に過ごしてはいるし何なら同じベッドで眠る人たちさえいるが、交わりというものをしているようでそこには届かないむずがゆさがひたすらあるのも印象的。同じ病棟にいる男女が檻越しに睦まじく(?)コミュニケーション、抱擁するようなくだりもありはするが、そこに見いだせるのは断絶の色がやはり強い。その二人にしてもその距離感にしたってここでだからあり得るというものだろうと思うし。
精神的孤独をあらゆる形で、あらゆる被写体を通して垣間見せている(もちろん、こういう場所だからそうなるという話でもない普遍的に多くの人間が持つ暗さだとは思う)。

確かにこういう場所にいるだけで病む異常さは日常にあるけど、外の世界だって同じようにそこにいるだけで病む異常さは日常にあるのだよなあとも思いはした(それを目の当たりにするかどうかは別として)。もちろん二つの場所に違いはいろいろあるけど、結局のところこの世界にはほとんど逃げ場がないのだなあとたいへん暗い気持ちになりました。
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