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野のなななのかのManabuのネタバレレビュー・内容・結末

野のなななのか(2014年製作の映画)
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このレビューはネタバレを含みます


生と死の絵画「シネマ・ゲルニカ」という映画作品___大林宣彦監督『野のなななのか』

本作は大林宣彦監督が「映画」という手法を用いて描いた「シネマ・ゲルニカ」という作品である。「ゲルニカ」とはスペインの画家、パブロ・ピカソ(1881~1973)が、1937年の4月にスペイン内戦で無差別空爆を受けた街「ゲルニカ」を主題にし、同年の6月に制作された、縦3.5m、横7.8mに及ぶ巨大な絵画である。白黒で表現された画面には、空爆の犠牲になった子供を抱えて泣き叫ぶ母親、狂った様相を呈した馬、天を仰ぎ救いを求める人間など、逃げ惑い、苦しみ叫ぶ人々や動物の様子が描かれている。ピカソが戦争体験をリアリズムの技法を用いる事無く、子供のようなタッチを使い、対象をデフォルメした手法をあえて取り入れ、作品を製作した事で、より一層、凄惨な体験を後世に伝える作品となった。大林監督は「僕は3・11以降、芸術は風化しないジャーナリズムだと決めましてね、それでこの作品を作った。名付けて『シネマ・ゲルニカ』ピカソのゲルニカが人々の心を揺さぶり続ける様に、想像力で僕らは(戦争体験を)伝える」と語っている。日本が再び誤った方向へ進まない様にする為に、という強固な願いを持ち、撮影された映画作品が、本作『野のなななのか』である。

大林監督は1938年に広島県尾道市に生まれた。1945年、敗戦の年の8月15日には7歳だった。軍医大尉として戦地へ赴いていた父の代わりに、家を守っていた母は、長い髪を切り、父のスーツを着た。戦時下であるにも関わらず、当時の大林監督に、継ぎ当ての全く無い服を着せ、隣に短刀を置き「朝まで起きていましょう」と言った。大林監督は当時の事を「国が負けた後、男は撲殺され、女は強姦され、子供は虐殺される。そんな張り詰めた空気がありました。母は僕を殺し、死のうとしていると、子供心に覚悟しました」と詳言されている。7歳という幼さで壮絶な体験をされた大林監督だからこそ、本作『野のなななのか』は監督の手によって、いつしか作られなければならなかった作品だったのだ。

大林監督は幼い時分から、戦時下に人間の死を目の当たりにし、父が営んでいた先祖六代続く病院に於いて、人間の生と死と隣り合わせに育った。やがて成長し、映画を撮影する様になり、人の生き死にをテーマとした映画作品を作り続けた。そして2010年、自らも心臓の病によって生死の淵を彷徨った。「僕自身も、いっぺん死んで、もう一度生かされる体験をした」と語る大林監督は、この時期に本作のテーマへと繋がる¨生と死の境界線が曖昧になる¨体験をされていたのだ。更に、その後に発生した東北大震災で被災された方々の心情を想い測りながら、遂に大林監督は、本作を完成させた。「結局のところ、すべては人の生と死なんですよね」と大林監督は振り返る。劇中に「人の死は、誰かに繋っている」と何度も繰り返し語られる台詞がある。仏教用語での輪廻転生であり、それは命が何度も生まれ変わる事を意味する言葉である。それでは、本作『野のなななのか』に込められた大林宣彦監督のメッセージを考察してみる。

「パスカルズ」という14人編成の大所帯バンドが、本作の始めから終わりを通して、1つのテーマ曲を繰り返し演奏し、物語と共に、劇中を演奏しながら練り歩く。広大な北海道芦別の大地を背景に、その光景はまるで古いイタリア映画に出てくるような、楽隊による葬送曲の様相である。なんとも荘厳で神々しく美しい。パスカルズが芦別の野を歩き回る姿、これこそは正に「人は死んでから49日の間、魂が彷徨い歩く」とされている「死者の魂の様相」であり、大林監督が映画の冒頭で哀悼の意を示していた鈴木評司さんの魂であり、震災で被災された方々、そして恐らくは大林監督が想う、全ての死者達への浄化の儀式であるのだ。遠くオレンジ色に沈む落陽を背に、野に咲き渡る花の中を、楽隊はひたすら練り歩く。それは死者を追悼する、聖者の行進なのである。劇中で繰り返される台詞「人はなななのかに生きている」と言う意味こそが、それにあたると言えよう。

「人は誰かの代わりに生まれ、誰かの代わりに死んで行く」というテーマが、本作の原作者である長谷川考治さんのナレーションにより、物語は幕を開ける。2013年3月11日14時46分、北海道芦別市の病院で鈴木光男(品川徹)が92歳で他界する。告別式、葬儀のため、方々で生活していた鈴木家の親族一同が芦別に帰ってくる。光男の孫、カンナ(寺島咲)が主軸となり、物語が進んで行く中、鈴木家の前に謎の女、清水信子(常磐貴子)が不意に現れる。信子の登場により、光男の過去が焙り出され、光男以下の鈴木家一族が「如何にして光男の葬儀に至るまで生きてくる事が出来たか」が次第に解ってくる。本作は光男から続く、鈴木家四代を巡る年代記である。「なななのか」とは四十九日を意味する。その期間は「生者も死者も彷徨い人となる」とされる。劇中では死した光男も、過去に死んだ綾野(安達祐実)、信子、光男の同級生だった大野(伊藤考雄)、が登場し、生と死の境界線が無い「なななのか」の世界が繰り広げられる物語である。

映画の開始早々に「鈴木評司(ひょうじ)君に捧げられる」という文章が出てくる。鈴木評司君とは北海道芦別市の観光係だった職員の事である。鈴木さんは、大林監督の「さびしんぼう」(1985年作品)など大林監督の熱狂的なファンだった。多くの大林監督ファンがそうであった様に、1976年、まだ15歳だった鈴木さんも広島県尾道市へロケ地巡りを敢行した。後年、自らが暮らす芦別市を尾道市と同じ様に「映画の町にしたい」と考えた。大林監督に映画の感想や、自らの「映画のまち」構想を何度も提案した。そして1993年に芦別市で映画製作を行うという趣旨を掲げた「星の降る里芦別映画学校」の開校に至った。校長は大林宣彦監督が勤めてきた。生徒の中には後に、映画『そこのみにて光輝く』など数々の映画を制作される事になる呉美保監督などが参加していた。開校後は鈴木さん自ら、大林監督が芦別を訪れる度に、市職員としてロケ地になりそうな名所を案内した。映画製作に協力してくれる地元の人を紹介し、一方、大林監督は鈴木さんを東京の自宅に招くなど交流が続いた。ところが、1997年、鈴木さんは膵臓(すいぞう)ガンのため、36歳の若さで死去した。その後の2009年、大林監督は、かねてから懇願してきた「芦別で映画を撮る」という思いを表明した。本作が公開される事、それは、故、鈴木評司さんにとって最大の供養になった。映画のエンドロール後に映し出された、鈴木さんの一人娘、日苗さんが描いた作品が忘れられない。父の評司さんが亡くなった時、日苗さんは2歳だったそうだ。父の記憶は無い。日苗さんは成長し、高校へ進学され美術部へ入部した「死ねば何も残らなくなるから、絵に描いたら残ると思った」とされた、その絵画作品は、生々しいタッチで描かれた白い骸骨をモティーフにした絵だった。それにも関わらず、暗闇から、ぼうっと「魂のようなもの」が浮かび上がっている様に思える一枚の絵画は、私の胸に温かく、そして強く深く響いた。志半ばで亡くなった父を絵画の中へと、筆を持つ血の通った日苗さん自らの手を通して、大切に記録し、又、描く事の行為そのものによって、捉え難い死を受け入れ、乗り越えたのだろう。

劇中には、血を連想させる、重く赤い色彩を持った絵の具を塗り込められた油彩が、何枚も登場するのだが、私は過去に美術を専攻していた学生時代を不意に思い出した。ある絵画実習の際、担当する講師が「昔は赤を使う時に血を垂らす物がいてね」とぽつりと呟き、はっとさせられた事を思い出したのだ。また、私は染色の仕事に携わってもいるのだが、職場の先輩に「昔はどうも¨ある赤い色¨を表現する為に、少量の血液を混ぜた職人がいたそうだ」と教わり、これにも又、驚嘆させられた事を思い出した。他にも美術書の文献などを調べてみると、これに近い行為が数々の場面で有る事が判った。絵画では無いが、自らの指を切り、その血液を用いる事で、誓いの強固さを表した「血判状」は、その最たる物である。血を作品に混ぜる事で、本当にその色がある特別な色に、そして劇的に変色するとは、現実的にはまず、考えられない。むしろ「血を混ぜる行為そのもの」に意味があるのだ。劇中で光男によって描かれた油彩は、全て「血の赤」が用いられ、更には光男が筆を持つ右手には常に血の跡が、まるで呪いの様に刻印されているのだが、それが表すものとはつまり「命の象徴」なのだ。「僕は綾野を血で描く、線では決して描けない」という光男の言葉の本意はここにある。人物を描く本質は、単に輪郭線や形態を描写する事には無く、描く対象の感情や、魂そのものを、捉えようと努力する試みにこそ或るのだ。光男が描いた数多くの絵画は、芦別の風景画と、天を仰ぎ見る信子の裸身画である。それらは全て、何層にも塗り重ねられた深みのある青であった。青は、静けさ、悲しみ、水、涙、等の静的な感情を観る者に与える色彩である。それに比べ、赤とは躍動感、熱、血、等の動的な感情を鑑賞者に想起させる色彩である。光男は深く青い絵画に「生命の赤」を一滴垂らす事により、絵画そのものに命を吹き込ませようと試みたのだ。そして、ここで最も重要な点は、パブロ・ピカソが「ゲルニカ」を、全て白と黒のモノトーンのみで統一させ、画面に一切の躍動する生命力を排除した事に、大林監督が意識的に対比させた事が、非常に明媚な試みであった。大林監督は本作を「シネマ・ゲルニカ」という作品を作ったと、私は冒頭で述べたが、その理由は光男によって描かれた何枚もの「赤い血の絵画」を考察する事で、より明確に解るのだ。

ピカソが「ゲルニカ」に置いて写実ではなく、キュビズムという、多角的な視点で物事の本質を捉えようとする画法を用い、戦争の悲惨さを描き、戦争の記憶を風化させない為にという意図で描いた事柄と同じくし、大林監督は物語を、リアリズムの手法に頼らず、生者も死者も同時に存在する時間と空間を、映画内において、不思議で美しい芸術的手法を用いる事によって、3・11の出来事や凄惨な戦争の記憶を風化させない様に考えたのである。

前作『この空の花 長岡花火物語』は戦争と震災に遭った新潟県長岡市の歴史と、そこで毎年打ち上げられる花火についての映画だった。「みんなが爆弾なんかつくらないで、きれいな花火ばかりをつくっていたら、きっと戦争なんか起こらなかったんだな」と言い残した、パスカルズのメンバーである石川浩司さんが演ずる画家・山下清の強い言葉が、非常に印象深い長編大作であった。この映画で印象的な点が「登場人物の視線」であった。主役の玲子(松雪泰子)はじめ、登場する役者が悉くキャメラに向かって台詞を語りかけている。役者の視線をキャメラに向けさせる事によって観客を映画に介在させ、無意識に劇中へと引き込み、映画内で語られる凄惨な過去、混沌や混乱を、他人事として終わらせず、一緒に考えていこう。という大林監督の意図であった。3・11の出来事を我が事として、映画の中に入り込んで欲しいという思いから用いられた手法だったのだが、さて本作『野のなななのか』では「視線の手法」をある限定されたシーンにのみ用いられていた事が興味深かった。それは物語中盤に主人公、光男が樺太での凄惨極まりない戦争の記憶を語るシーンである。終戦が8月15日という認識は誰もが持つ共通認識であろうが、光男は北方での戦争は実は9月5日まで続いていたと語る。知られざる重要な詳言を劇中で独白する、その眼光は刃物の様に鋭く、又、語られる口調には切羽詰まった鬼気迫る思いを感じ、思わず背筋を正された。これは、大林監督が様々なメディアを通して言及されている、戦争に対する我々の認識を、より感化させようとする意図であろうと思われる、非常に印象的なシーンであった。

私は映画『野のなななのか』を鑑賞し、物心がついたであろう、まだ幼い頃の、私自身の強い体験をふと思い出した。それは、今は亡き祖父に「オマエの命も、あと10センチだった」と言われ、幼心に衝撃を受け、そんな祖父に対し畏怖、畏敬の念を覚えた思い出である。(記憶の中の祖父が、劇中の光男の姿に、ことごとく重なって私には見えたのだ!)祖父は戦場へ赴き歩兵団の一員として沖縄南海上の戦地から帰還した人物だった。祖父の左上腕部には、戦中、敵の銃弾に当たり、貫通した傷跡が青黒く、それは何かの怨念のように、はっきりと張り付いていた。祖父は戦争について、多くを語ってはくれなかったが、私はその銃弾の傷跡を見るだけで、如何に戦争というものが恐ろしい事であるかという事を、幼心に少なくとも想像する事は出来た。私の命は、あと10センチ外れていたら、今、この世には無かったのだ。時に祖父のあの言葉を思い出すと、私は言いようの無い恐ろしさに包まれるのだが、一方で、その10センチで生き得る事が出来たのかも知れない誰かが、何処かに居たのかも知れないと想うと、どうにも居たたまれない気持ちになる。生きるとは、人の命の繋がりとは、生と死を想う事、そのものに違いないと私は考える。私の母や、親せきによる祖父に関する詳言を聞くと、鬼の様に恐ろしく、とにかく厳しかった祖父は、戦後帰還し、まるで人が変わった様に寡黙になり、一心不乱に働いたという。そして、他人には誰に対しても優しく、情を持って接したと聞いた。
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