NOR1

恐怖のまわり道のNOR1のネタバレレビュー・内容・結末

恐怖のまわり道(1945年製作の映画)
5.0

このレビューはネタバレを含みます

【ちょい長です】

脚本家・高橋洋が「本人には迷惑な話だろうけど、売れてない俳優の色気ってありますよね?」というようなことをかつて言っていたが、この映画のトム・ニールはまさにその典型に思える。ではその色気とはどこから来るかという答えの一つに、良からぬものを吸い寄せる力、があるとは言えないだろうか。

冒頭、回想の拠点となるダイナーでの不機嫌さも凄まじいが、吸い寄せられたかのような煤や脂や無精髭などの汚れはどうだろう? 彼は何らかの特殊な磁力を持ち、あらゆる不幸はその力に不可避的に引き寄せられるだけでなく、多少の辻褄は強い磁力に歪められ「ありえない不幸」に変形して、時に隕石のように衝突してくる。そしてその力は、はるか原初からすでに作用を始めているとしか思えないのだ。ピアノ演奏にそれなりのチップが集まる最も若く最もマシな時期でさえ、彼の顔面にはあまりに卑屈な笑みが張り付き、ナイトクラブでのそこそこの成功に対しては反撥する力まで働いている。引きつけ、撥ね返す、不幸専用にチューニングされた磁力、と呼ぶにふさわしいものが彼を極にして作用しているのだ。

主人公が「拾う」女、ベラ(アン・サヴェージ)の場合はどうか。彼女をガソリンスタンドで見かけた途端、「乗りたきゃ乗れよ」と声をかける主人公だが、観ている我々は、彼女が車に乗ることに確信以上のものを既に感じている。67分という短い尺の中で効率的に物語を語るには無駄なことなどしていられないのもひとつだが、そんな要請を超えて、「引かれ合う極と極はくっつく」というのは自明なのだから、彼女がサイドシートに吸い込まれるように収まるのも、ほとんど科学的に当たり前のことなのだ。
そしてまた、変死したハスケルに爪を立てた女こそ彼女であろうことにも、我々は予感以上のものを感じざるをえない。その展開が「すぐ読める」ことを誇らしげに告げることに意味はない。伏線という予感を喚起する磁場は既に作り上げられているのだから、その磁力がどのように作用し、どんなアクションが生まれるか、がここでの問題なのだ。

助手席で正面を向く彼女の横顔の肩までのアップ、それを「なぜか美しい」と思い、「自然の美」を見る主人公。と、急にこちらを向く彼女。ヤバい。ここでの視線はあまりに貫通力が強く、全てがバレた瞬間の驚きと諦念の混ざった情動を観るものに感じさせる。が、その後に続くのは「どこに行くの」「ロサンゼルスさ」という文字通り通常運転の会話。高まった緊張は一気に弛緩する。その結果か、ベラは出会ったばかりの男の隣で白い首筋を露わに寝入り、それをチラチラ見る(見すぎる、と言っても良い)主人公も「こちらを向いた瞬間に感じた妙な気持ちはなくなった」と気を緩める(ということは主人公も我々と同じ緊張感を感じていたのだ)ばかりか、「苦労してきたのだろう」という同情の念まで抱き始める始末だ。しかし物事はそう簡単に進むはずがない。ベラ越しの寄りと主人公越しのバストショットが何度か切り返された後、彼女はたびたび目を向ける主人公の視線を回避し、気付かれぬまま目を見開いたかと思うと、素早く身体を起こして主人公を向き「遺体はどこ?」と詰め寄って来るのだ。
この寝ながら目だけを開くショットは、先刻の急に主人公に顔を向けるアップをいわば踏み台にして、より強い衝撃を観るものに与える。たとえば優れたホラー映画で死者たちが不意に立ち上がる瞬間、指を差して「ほら見て」と言いたくなってしまうあの感じ。優れた運動を捉える優れたショットは、ただ単にそれを指摘したり繰り返したり真似をする運動へと観るものを誘う。それが一つあるだけで、その作品は忘れ難いものになるだろう。二つあればもう傑作だ。だから我々はここでも、同じ映像を見ている隣りの人の肩を叩かんばかりに「ほらいま目が開いた!」と言いたくなってしまうのだ。

そのようなアクションを生んだ磁力について。ベラが見せる引力と斥力が目まぐるしく入れ替わる様は、電流の方向で極を変える電磁石のようだ。とは言えないだろうか? 主人公を誘うようで拒み、突き放すようで引く。たとえばいざ車が売れるとなったら翻して持ち主の父の遺産を狙い主人公を引力圏から逃がさない彼女は、明らかにプラスとマイナス、SとNの両極を持っている。力を自在に切り替えられる彼女が「遺体はどこ?」と強力な視線を主人公に投げかけて以来、彼は彼女に触れることも彼女から逃げ出すこともできず、唯一の解となる強さの引力の作用で、ただまわりをぐるぐると回るしかない衛星のようだ。

それにしても、彼女の声、映画史上最も神経を逆撫でするとすら言いたくなる声はどうだろう。ご都合主義の極みとも言える「ありえない」理由で彼女が死ぬ時、かつて助手席で露わにされていたその喉が強く締められることによって、彼女の生命は奪われ、当たり前だがその声も消える。その時彼女の頸にぐるりと巻かれる物が電話線なのは、電磁石的存在である彼女にとっては必然なのである!かどうかはここでは無責任に言い放つだけにしておくが、彼女の声をもう聞かなくて良いと知った我々は、取り返しのつかないことが起きた衝撃と同時に、深く安堵を覚えてもいる、ということを否定する人はいるだろうか。そしてそんな「気持ち」はどこにも映っていないにも関わらず、主人公もいくばくかの同じ気持ちを持っているに違いないことを疑う者は果たしているだろうか。

東から来て西に着くはずだった主人公は不意の電磁石=ベラとの遭遇により磁場を狂わされ、方向感覚を失って彷徨う(そう、磁石は方角を読むためにも欠かせない素材の一つだった)。より厳密には西=LAに入ったにも関わらず、ゴールである恋人の家には辿り着けず、ベラの「殺人」をUターン地点として後退して「西と東の間のどこか」で目的地を見失う。
西と東、そしてこのフィルムの最初と最後(もしくはデータのどこか)、そしていわば磁石の二つの極の間に永遠に囚われる寸前、またしても引き寄せられるようにやってきたパトロールカーに乗せられて去るという結末は、ベラの声から解放されたのと同様に、彼にとってはひとつの救いとなったように思えてならない。

コクトーには「運命とは地獄の機械である」という言葉があるが、この映画の場合、その動力が何であるかはもはや指摘するまでもないだろう。
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