ーcoyolyー

愛の嵐のーcoyolyーのレビュー・感想・評価

愛の嵐(1973年製作の映画)
3.8
サイモン・ヴィーゼンタールさんこいつらです!サイモン・ヴィーゼンタールセンターの必要性がよく分かる。と同時に我々はこういうものを観ると自分をナチ側ではなくユダヤ人側に置きがちですが、実際にはナチ側にいることが圧倒的に多いので、意識して自分を加害者・強者側に置き続けるという態度は義務教育での必修科目にした方が良いとも思う。特にシスヘテロ男性は常に加害者・強者側にいるので相対化に慣れていない。私らとかたとえば男性でも在日コリアンという属性を持っている人なんかは自分が加害者でも被害者でもある、強者でも弱者でもあり得る、ということを身を以て学習してるので加害者・強者になり得るという事実を何の抵抗もなくさらりと受け入れることができるのですけど、日本に生まれ育った両親もその両親もまたその両親も日本人のシスヘテロ男性でそういう態度で自分の加害者性・強者性を受け入れることができる人は大変稀だ。彼らの拒否反応を目の当たりにする度に私は面食らってしまう。生きていく上で弱者性・被害者性を帯びたことがない人なんだな、とその態度で逆説的に浮かび上がる。この世には絶対的な加害者も被害者も強者も弱者もいないのに、その事実を受け入れられない。何と恵まれた人々なのだろうと呆れてしまう。

あの二人の組んず解れつ錐揉み飛行のような関係性も、理解できない、などと恵まれた人々のようなことは言えなくて、私はあれをよく知っているし沢山ああいうのを見てきました。性暴力で起きてしまったことを恋や愛とすり替えることは非常によくあること。そうしないと我々の心身は保たない。生きられない。生き延びられない。学校でも教師と生徒の間に起きていることを恋だの愛だのにすり替えている様はうんざりするほど見てきました。それを半ば黙認している学校の姿勢にも気味の悪さを感じていました。いやいやいやいや不純異性交遊どころの話じゃないよね?とドン引きする私の感情は無いものとされてきました。あるけど。めちゃくちゃあるけど、カトリックの培った無視の伝統の前には一介のノンクリスチャンの生徒の感情など成す術もありません。あいつら無視と論理のすり替えによる確信的なミスリーディングの屁理屈の言い訳の自己弁護塗り重ね塗り重ねで2000年やってきてるからそのノウハウで小童一人を抑え込むくらいは造作もないことだった。


こういう話なのに甘さがあるようで一切の甘えが無いのは女性監督だなと思いました。女の裸の撮り方がまず女性監督だった。何の甘ったるい感傷も幻想もない、即物的な家畜のような撮り方をしてるのがとても女性の目だなと思いましたね。その醒め方はこういう題材を撮る時に必要なものなのかどうかは分かりませんが、変に物分かり良くならず、私が居心地の良さを感じる居心地の悪さだったのは信頼できる人だと思いました。
ーcoyolyー

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