Eのビブロフィリア

チョコレートドーナツのEのビブロフィリアのレビュー・感想・評価

チョコレートドーナツ(2012年製作の映画)
2.3
まるで実話を元にしたかのような宣伝口コミが日本公開当時から目立っていたと思うのですが、
実話に着想を得た話なのはちょっと詐欺めいててモヤモヤしました。
感動ポルノで泣きたいのでなければ、わざわざ令和にみなくてもいいかと。

私の数年後数十年の評価では5かもしれませんが現時点での評価で、今の評価はかなり甘くしてコレです。
酷評ですが、素晴らしい作品だったという感想が私の酷評によって1ミリも穢される事がなくそれまでと変わらずこれからも素晴らしい輝きを放っている事、その感想も素晴らしいもので大切にして欲しいものである事は間違いありません。
つまり、私の意見は私だけのもので過去と未来の私にのみ責任を持ちあらゆる干渉を受け付けません。怒りに囚われたという側面を否めないので、色々バイアスかかってます。
あしからず。

映像の出来は素晴らしく、特に俳優の演技はここ数年で鑑賞した映画でもかなり好きです。

終わり方に別段不満はありませんが、私としては色々と胸糞悪くて二度と観ないと思います。
この話は家族になろうとした優しいゲイカップルと自閉症の男児の悲劇ですが、
親になる知識も覚悟もない人達が親になれないって宣言されたと言う事をマイノリティーの拒絶に擬えた話にしか思えませんでした。

(ざっくりこの時代のあたりの知識が、何本かのタイトルも忘れた映画と羅川真里茂さんのニューヨークニューヨークが頼りなんですが)
確かにこの時代偏見まみれでマイノリティーってだけで生活はおろか人や場所によっては命すら危うい事もあったと思いますし
真実のままに申告しても無理だとは思いますが、
善行の為だろうと偏見があるからだろうと嘘ついた人達が司法に養育者としての立場奪われるのはマイノリティー関係なしに至極真っ当な事だと思います。むしろ何で許可されたのかずっと疑問だったので、奪われてホッとしたぐらいです。ちゃんとそこの監修を受けているのでしょうか。

養育権とか監護権とか知識不十分で、興味があるレベルの基礎事項程度の勉強ですが、それでも始まる前から負けてませんか?何故裁判勝てると思ったのか…?裁判員制度?
沢山愛があるから?

現時点でも司法でも愛という目に見えないものの過多は、どれだけ教育できるかというお金や資産や仕事などに置き換えられます。といえど、1番強いのが血の繋がりなのは否めませし現時点の法や解釈だけが正しいとは思えませんが。それでも愛だけで、子供は育てられません。
その事実によって奪われたものを悲劇として嘆くのに怒りがわきました。

あれだけ怯えるからこの時代の施設は死傷者たまに出たりする劣悪極まりない施設だったかと思いきや(孤児院に限らず保護の名目で劣悪な環境を強いられる事も映画になってるものもあるぐらいの事実です)、そんなに悪くないところという描写にみえます。

マルコが逃げ出したのは、愛というより自閉症(現在自閉症スペクトラム障害または自閉スペクトラム症)としてよく見られるいつものルーチンワークができないパニックとして考えるのが妥当だと思います。まぁ逃走を許してしまう施設と設備の不備~~~とはおもいますが。
愛故にを否定はしませんが、自閉スペクトラム症であれば愛一つまみで残りは不安とストレスの爆発によるパニックによる衝動的な行動と不運の重なりという解釈が普通だと知識と経験の元思いました。

だから、始めもそうだけど終わりが1番親ぶって何?泣いて終わりなの?ぁんん?って映画が終わった瞬間腸が煮えくり返りました。
家族家族…って主張するわりにはその子の為の行動が消極的な気がして…養育などの自分にも及ぶ権利には熱心なのに何が何でも会いに行かないんだ………一目だけとか声だけでも聞きたいとかないんだ………(先日見たアンという名の少女のインディアンの両親が政策の元監禁された娘の建物の近くで命かけてキャンプしてるの思いだした目…)
穿ってるのは百も承知で、
それらのみでジャッジするのは危険ですしそれだけが正解では絶対ないのですが
愛の一例として自分の生活や幸せや(束の間だとしても)安寧を投げ出しても
守りたいとかではないんだ………………………?

ずっと端々に自己保身チラついていたけど、最後まで消えなかったな………まだ一緒に死ぬとか、B級映画になったとしてもうらみはらさでおくべきか〜!ってキャリーも真っ青チェンソー片手に血塗れ大暴れの突然のジャンル鞍替え無意味で逆恨みなバッタバッタの復讐劇とかやってくれればここまで苛々しないのです。
やらなくて良かったと思うけど。

判決はどうあれ、施設に引き取られても生きているんだから会いたいって頑張る方向では何故駄目なのですか?
どうせなら、ラリった母親も一緒に暮らして更生させながらしっちゃかめっちゃな役割曖昧な疑似家族じゃどうして駄目なんですか?

しょうがないのでくそったれ反吐が出るって地団駄踏みました。踏みたりなかったのでまだ怒ってますし、書き(打ち込み?)殴ってます。(書き終わって誤字脱字確認してる今8時間ぐらいこのレビューに使ってて自分に引きます)


「同性だろうが異性だろうが
血繋がってろうが血が繋がってなかろうが
障がいがあろうかなかろうが
あなたの思う家族ってそういうものなんですか?

(演出なのは重々承知でメタファーかもと念頭に置いても)
本当に自分の息子が悲惨な死に方したら、
(呑気に)手紙書いたり歌うたって悲しんだりできますか?忘れないよ…って気持ちで泣いて喚いて自己破壊もせず(感情が極端な人の例ですけど、震える舌のお母さんだったらやりそう)
悲しみどうにか整理できるんですか?
本当に家族で息子だったら、ほいほいディスコ連れていきますか?
チョコレートドーナツほいほいあげますか?
(↑↓これは流石に言い過ぎ穿ち過ぎ。そういう主張はないし、そういう意図はない。でもテーマを真正面から受け止めようとしたらそう思わざるえなかった…。そう思われないようにストーリー作れなかったのか…→)LGBTQのカップルだったら、愛があったら、
適切な知識なしに子供育てていいんですか?(絶対に違うよね。周りにはいないですが、たまにNHK等の特集で見る人達は熱心に勉強して子供を育てている)」


今書いててふと思いましたが、このカップルのひいては脚本家が書いた愛情は、孫を可愛がる祖父母のようだと思いました。

可愛がるだけ、与えるだけ。
それだけが人を育てる事では無いのは、その経験がある人には自明の理でしょう。
いやいや、そこらへんの教育は既にできていてマルコには優しさだけが必要だったんだよって思う人は
そう思わなかった人間がどうしてその考えに至ったかもしも考えてくれると嬉しいです。
少なくともあの年齢でお人形をもって過ごしたり話す言葉や行動から、恐らくマルコの設定は知的障害も伴う自閉スペクトラム症かと思われますし、あの環境下で適切な教育が行われマルコが適切な社会活動に馴染む訓練が染み付いていると考えるにはとても厳しいものがあります。
引き取る引き取らないだから、そこまで進んでないし
お盆とか夏休みに孫とかいとこがきたみたいなお客さんもてなしただけみたいなものと主張するなら…引き取れない事も、家族になれない事も自明の理です。大人しくおせっかいな愛しき隣人/友人の位置に留まるべきです(189ダイヤル片手にね)。
やってる事はほとんど実話と変わらないのですが実話と違い、
子供を引き取りたい云々のエピソードのせいで私が怨霊化をしたな思います。

1979年ではそれが子育ての常識だったのかもしれないので、
彼らは【正当なる偏見】によって引き離されたと取るべきでお門違いかもしれませんが
お門違いだろうとも揚げ足取りもどきだろうとも
これが実話に着想を得た話なので、即ち実話を元にしてない以上きちんと時代考証行ったかどうか分からないのでそれを放り投げた脚色だとしたらの【仮定】で、腹が立っています。時代考証していたとしても、令和の子育て価値観だと駄目だと思うけど。(駄目ではないに足る強い説得力、有るならいつか見つけきれるかな…)

外国の子育てではこうだから舞台としては当たり前の出来事なのか?と、ふと思いましたが
1年ほど前に見たイギリスか北欧かの障がいをもった人達が独り立ちをするまでのドキュメンタリー番組を見ましたが、一個人として認め特質への理解を踏まえた上で対話を重ね合い工夫と努力の末独り立ちしており
個人差はありますが健常者の一般的なそれよりもすごくステップが多いだけで
障がいや外国など属性によって【違う】と断絶させるほどではなかったように思いました。そもそも舞台の国は個人の権利に重きを置くお国柄なので、よりあり得ないかな。

今、書いている時もふつふつと腹立ちが蘇ってきているので頭に血が上っている事でしょう。

先にも何度も書いてますが
実話を元にした話と聞いていましたが、さっき調べたところ
【実話に基づく話】ではなく
【実話に触発された】で
実話を元に脚色しているようです。
ソース確認は各々でお願いしたいのですが私が調べた限りでは
実話は母に育児放棄され祖母に預けられた話せない障がいのある子供をゲイカップルが生活支援をし実質的に育てあげたという話のようです。
それをもしも引き取ったらって話に脚色したようで……
どうしてそのまま、映画化しなかったんでしょうか。

おせっかいな愛しき隣人/友人をこえ、保護者になるにはしかも自閉スペクトラム症の児童の養育者としての権利を勝ち取るには十分な説得力が少なくとも映画の描写から読み取れる分だけでは足りないと思いました。(何度でも書きますが、足りると思う人間が間違いという主張ではないです。あくまで私の感想です。)

私の腹立ちは狭量ではありますが、どう解釈の方向性を変えても美談に仕立て上げたいという意図を退けられないその脚色に腹が立ちいくら燃やしても足りないです。

散々言いますが、映像のセンスは好きですし俳優の演技本当に素晴らしいです。

でも、これ自閉スペクトラム症(MSDマニュアル家庭版参照)である必要あります?
実話の児童は自閉スペクトラム症の可能性確かに高いですけども。でも実話の映画化じゃないですし。

そもそも疑似家族のモチーフいります?
実話からもしも子供を引き取ろうとしたら…ってIf話なのは重々承知で

LGBTQに立ちはばかる壁としてのメタファーとしてこの話があるとしても
いやいや…立ち向かったと判断するには後2歩ぐらい踏ん張って前に進まないと……
意地悪い見方としては世間の偏見と保身の葛藤は良かったんですがそうすると
この映画のテーマとして抜いちゃいけない愛が利己的に思える。(それはそれで好きなテーマだけど)

心に空いた穴ぐらい大人なんだから自分自身で塞いでくれ。
寄る辺なき守られる者によってではなく。

というか泣きたいのも散々なのもマルコだわ。

正直、マルコのようなネグレクトは
自閉スペクトラム症でコミュニケーションが困難な子ではそこまで珍しくもない。いくつも実際見た。

マルコは恐らく訓練さえすれば障がい者の枠で仕事をし、
施設か、公的なもの等の助けがあれば一人暮らしできるポテンシャルのある自閉スペクトラム症の中では恵まれた…というと辛いがどう考えても良い方ではある。(役者本人の話ではなく、あくまでもマルコという役の話。)
あくまでもポテンシャルであり、実際できるかどうかは脇においてますし、そんな事はないという人もいるだろうけど私が思った経験に基づいた感想なので。

だからこそ、悲劇とか感動の道具にされるように思えた事に虫酸が走って仕方がない。
愛や優しさだけでどうにかなるわけないわーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー。

期待があったからこその落胆ではあるし、出来が良いものだと思うから楽しみたかったという憎しみである事は否定しない。

無償の愛みたいなものを描きたかったと思うのですが、
だとしてたら愛によって死んだし、愛って利己的だなぁしか残らなかったので私としては惨敗です。

でも舞台版は何か違うかもしれないし楽しいかもしれないので、
機会があれば観てみたいと思います。

もう聞きたくないだろうが、
映像は素敵だし、俳優の演技は良いです。

強いてこの映画から教訓を得るなら、
差別よりも知ろうとしない事が
時によっぽど差別となる事を繰り返し自覚する事が大切であるということ。
いやだからって某有名小説家のように、公の場で差別発言や差別を匂わせる発言は今も昔も知ってても知らなくても駄目です。
それは絶対に駄目。

でも
マイノリティーだから
弱いから(劣っているから) 
主張は正しいと鵜呑みにするのは
ただの価値の反転でしかなく
マイノリティーがマジョリティーになればいつか反転するしかない
押し問答みたいなやり取りではなく、
(日本はぶん投げて)
少なくとも世界では今、
理解できない・嫌い・正しくない思ってても一緒にいられるような
多次元のレイヤーを(要は棲み分け)
最終的には目指しているはずなので、いつかこの感想を全く違うものに書きかえる事ができたらいい。(LGBTQに当てはまってはいないが己のマイノリティーとしてのトラウマ/逆鱗に触れたのも重々自覚している。)
 
もし、ここまで読んだ人がいて差別してはいけないと思うなら
どうして人が差別するのか
育った場所か、文化か、精神状態か、貧困か、時代か、同調圧力か、
知らない文化等でも
自分のものとして自分に起こりうるものとして、
つまるところ差別主義者になりきってみて考えて欲しい。

何が理解であり、尊重であり、差別であり差別でないのか。
差別をしないという事は、本当に差別ではないのか。

差別する人を差別するという差別ではないのか。

知らない怖さを忘れないように刻みつけておく。

かなりマルコ側に寄った意見だと思うが、ルディとポール出会い方とか関係性とかめちゃくちゃ好きなカップルです。特にルディ。
好みとしてなら、マルコ別に好きではないです。
ルディが好きだからこそ、私という規範の枠に何が何でも入ってほしかったかもしれない。2回目鑑賞して、どれぐらい自分がエゴイスティックだったのか確認したいのですがまだ怒りさめなくてあと5年は無さそうです。
と言ったんですがそろそろ10時間ほどこの感想と向き合っていたらスッキリしてきました。
ので、チャージマン研見てこようと思います。

はー人間って難しい。特に自分。