うえびん

プリズナーズのうえびんのレビュー・感想・評価

プリズナーズ(2013年製作の映画)
4.0
正義のための暴力の末

2013年 アメリカ作品

『灼熱の魂』『ボーダーライン』
ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督の作品は、冒頭からグッと作品世界に惹き込まれ、ずっとひりひりとした緊迫感が続き、はらはらする展開で飽きさせない。

愛する娘を突然奪われた父・ケラー(ヒュー・ジャックマン)、事件を担当する刑事・ロキ(ジェイク・ギレンホール)の鬼気迫る演技が素晴らしい。犯人を捜す推理と逮捕劇が、リアルでスリリング。

随所に散りばめられたキリストへの信仰。信仰とアメリカの自警社会の矛盾、極端な正義と悪の二元論と行きすぎた言動。リアルでグロテスクな描写が強く印象に残る。本作に通底するテーマは、普遍的な人間と現代アメリカ社会の病理だろうか。

『ニュースの“なぜ?”は世界史に学べ』(茂木誠)

▶アメリカはなぜ「世界の警察」をやりたがるのか?

アメリカが外国に出て戦争をするのは、実は、福音派(プロテスタント・清教徒)の思想が大きく影響しています。彼らはまず、アメリカという理想国家(=神の国)をつくりました。しかし、まわりを見渡してみると、世界には「間違った信仰」――カトリックやイスラム教、多神教の国がいっぱいあることに気づきます。これらは「正すべき存在」ということになります。

今のアメリカ人にも、アメリカ型の価値観、つまり自由、人権、民主主義を世界中に「布教」すべきだという考え方があります。もし相手の国がアメリカ型の価値観を認めない独裁政権である場合には、武力を使ってもかまわないと考えるのです。

実は、アメリカが行ってきた戦争は、みなこうした考え方によって正当化されてきたのです。◀

フロイトの精神分析では、西洋人の無意識には基本的に、常に自分を妨げる父親が存在しており、常に不幸だという。不幸である状態から少しでも安定を図って幸福に近づきたいと常に思っている。そのために西洋では、父親に対しては「愛情の関係ではなく、命令されて従う」という関係、「父権制」「家父長制」と呼ばれる仕組みをとるようになったのだと。

本作の主人公・ケリーは、プロテスタント信仰による正義(暴力までも)を追求する「父権制」「家父長制」の象徴のように見える。大人と子どもの関係性についても、アメリカ人と日本人との違いが感じられ、考えさせられる。

『街場のアメリカ論』(内田樹)

▶児童虐待についてはアメリカには長い歴史があります。起源は清教徒たちが新大陸に移住してきた時代にまで遡ります。すべての人間は生まれながらにして罪人であるとするキリスト教の原罪思想はとくに清教徒においては強いものでしたから、子供は生まれながらにし「純真」であるとか「無垢」であるという子供観はここには入る余地はありませんでした。むしろ子供を殴って肉体から悪を追い払うということは、宗教的に容認どころか推奨されていたのです。子供への体罰は教育の王道、親や教師の権利というよりはむしろ義務だと考えられていたのです。(中略)

児童虐待を考えるときに、日本の文化とアメリカの文化の間に二点で違いがあることを考えておきましょう。ひとつは「子供」についての考え方が彼我で違うこと、ひとつは「暴力」についての考え方が違うことです。

日本人は世界でも例外的に子供を甘やかす国として知られています。(中略)中世末期に日本にやってきたポルトガルの宣教師ルイス・フロイスをはじめとするヨーロッパ人たちが日本に来ていちばん驚いたことのひとつは親が子供たちを甘やかす風景でした(もうひとつ驚いたのは日本の若い女性の驚くべき性的放縦)。いずれもヨーロッパ的常識からは信じられない風景だったからです。(中略)

もう一点、子供についての考え方だけでなく、(中略)暴力に対する考え方が違います。(中略)

アメリカの独立宣言には「革命権」「抵抗権」がはっきりと謳われています。これはバージニア権利章典(1776年)第三条に記されていたもので、政府がその設立の目的に反したり不十分であるとみとめられた場合、社会の多数の者は、その政府を改良し、改変し、あるいは廃止する権利を持つと宣言しています。91年の権利章典には「規律ある民兵は、自由な国家の安全にとって必要であるから、国民が武器を保有し、携帯する権利はこれを侵してはならない」と定められています。(中略)

自己実現の妨害者は自力で排除すべしということが国是とされている社会で、もし子供が親の目に「自己実現の妨害者」と映った場合、どんなことになるでしょう。(中略)

聖書には人間が守るべき戒律が列挙されています。『創世記』にも『出エジプト記』にも『申命記』にも戒律の長いリストがありますけれど、そのどこにも「子供に対する親の愛と保護」についての戒律はありません。あまりに当然すぎて書かれなかったのでしょうか。

エリザベート・バダンテールはその『母性という神話』の中で、中世の親子関係が私たちの想像するものとはずいぶん違っていたことを豊富な事例を挙げて教えています。中世に教会と国家がそれまでの親の子供に対する懲罰権に次第に介入するようになりました。教会は子供は「神からの授かりもの」であるから、両親は子供を私有物のように扱うべきではないと説き聞かせました。そうやって教会が何よりもまず親から奪おうとしたのは「子供を殺す権利」だったのです。教会の宗教的権威が鑑賞しなければ、その権利を制限することができなかったのです。◀

警察の捜査を待てず、自ら暴力をふるって娘を探す一方、息子に銃の使い方を教え高圧的に父性を叩き込むケラー。罪人の告解を暴力で制した神父。被疑者を暴力によって白状させられなかったロキ刑事…。

正義の追求のための暴力の行使。暴力が新たな暴力を生み、行きすぎた正義の追求は悪行となる。

ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督作品の鑑賞後の余韻は、普遍的な問いのループに引きずり込まれる。
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