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グレース・オブ・モナコ 公妃の切り札のtanayukiのレビュー・感想・評価

3.9
フィラデルフィアでレンガ製造業を営み、一代で財を成したアイルランド系カトリックの家に生まれた3人姉妹の次女グレースはハリウッドで大成功をおさめるが、人気絶頂のときにカンヌ映画祭で出会ったモナコ大公レーニエ3世と結婚、プリンセスとなって俳優業を引退する。表向きは人も羨むシンデレラストーリーだが、その内実は……というお話。

人前に出る職業の人は、他人の目に映る自分のイメージをコントロールしたい欲求にかられ、多かれ少なかれ、こう見てほしいという自分を演じることになる。俳優の場合はさらに複雑で、作品ごとに違った役を演じるだけでなく、役者である自分も演じるという二重構造に陥り、本当の自分(なんてものがあれば、だが)を見失いがちになる。グレース・ケリーも、役になりきると同時に、クール・ビューティー「グレース・ケリー」という役を演じ続けてきた。彼女にとって役を演じることは生きること。生の実感が得られるのは、やりがいのある役を演じるとき。だが、古臭い慣習に縛られ、制約ばかり多くて自由がないプリンセスという役柄は当初、彼女を閉じ込める檻にすぎなかった。

しかし、小国モナコを取り囲む政治状況が彼女の役者魂に火をつける。ド・ゴール率いるフランスの圧力で、独立を維持することさえ風前の灯火となったとき、グレースは「グレース・ケリー」を演じることに見切りをつけ、複雑怪奇な政治の世界に飛び込み、一世一代の大芝居を打つ覚悟を決めた。彼女にとって「グレース・オブ・モナコ」という新たな役柄は、全身全霊で演じる価値のあるものだった。

伝記映画にはつねについて回る「どこまでが史実で、どこからがフィクションか」という問題に、利害関係者の多くが存命中の場合は「人の数だけ真実がある」という別の問題も加わって、それぞれの思惑が入り乱れて問題が複雑になりがちだ。なんとか作品を着地させようと、監督、プロデューサーらがそれぞれの立場で口を出し、編集をほどこしたりすると、プロデューサー制作の劇場公開版、ディレクターズカット版など、いくつかのバリエーションが生まれ、最悪の場合、泥沼の争いに発展してしまう。

本作はまさにそういう不幸な運命をたどったようで、まず、グレースの実子たちから「不必要に美化され、歴史的に不正確である」とのいちゃもんがつく。脚本に対して「多くの変更要求」を出すがすべて無視されたことで怒り心頭に発し、こんなの伝記映画だと認められない、純粋なフィクションだと切り捨てた。そうした状況を気にしたのか、フランス人監督のオリヴィエ・ダアンと、なんと、アメリカの配給会社のハーヴィー・ワインスタイン(例の『SHE SAID』で告発されたセクハラ親父)のあいだでも編集権をめぐって対立が起きる。制作会社じゃなくて、配給会社だぜ? ワインスタインがどれだけ大きな力をもっていたかがわかるエピソードだ。

英語版のWikipediaから、ダアン監督の言い分(翻訳はDeepL)。
https://en.wikipedia.org/wiki/Grace_of_Monaco_(film)

「もがくのは正しいことだが、ワインスタインのようなアメリカの配給会社と対決する場合、名前を出すわけではないが、できることはあまりない。もしサインをしなければ、そこから脅迫が始まるが、そこまですることもできる」「今のところ、この映画には2つのバージョンがある:私のバージョンと彼のバージョンだ.……これは破滅的だと思う」

一方、ワインスタインは、脚本家の意見を尊重した「ライターズ・カット」だと言い張った(翻訳はDeepL)。

「脚本家のアラシュ・アメルが電話してきて、僕の脚本はどうなったんだと言ったんだ。ハリウッドへようこそという感じだ。脚本家に発言権はないが、私たちは彼とチームを組み、彼が書いたときのような映画に戻すために何ができるか見てみることにした。彼は素晴らしい仕事をしてくれた」

マンガ『セクシー田中さん』の実写ドラマ化では、原作を無視したプロデューサーと脚本家に批判が集まったが、本作は、脚本家(原作者)が遺族(当事者)に「事実と異なる」と批判されたにもかかわらず、配給会社が脚本家の側につき、その脚本に手を加えたらしい監督(演出家)と対立する構図になっている。利害関係者が増えれば、それだけ摩擦が生じる可能性が高く、映画の世界も一筋縄ではいかないようだ。その意味で、グレース・オブ・モナコが立ち向かった国際政治と、映画制作の現場は似たもの同士なのかもしれない。

ところで、私が見たのは、どのバージョンだったのだろう?

△2024/03/02 U-NEXT鑑賞。スコア3.9
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