ヤマダタケシ

天使のはらわた 赤い淫画のヤマダタケシのネタバレレビュー・内容・結末

天使のはらわた 赤い淫画(1981年製作の映画)
3.3

このレビューはネタバレを含みます

2022年7月 新文芸坐。石井隆追悼特集で
・天使のはらわたシリーズの結ばれない村木と名美の物語の、ある意味その型に忠実な作品という感じがする。これだけセックスシーンが多い作品でありながら村木と名美が肉体関係を持つ事は無く、両者ともにイメージの中だけでお互いの身体に触れる。つまり、ふたりとも相手自体を見ているわけでは無く、相手の虚像を求めている。特に村木⇒名美の想いはビニ本に描かれた縛られた女という虚像であり、それを追いかけて新宿のビル群を走り回る姿は、まさに虚像を追いかける姿であり、とてつもない空しさがある。
⇒というか、今作すべてのキャラクターが自分が思う相手という虚像を追いかけている映画だったように思う。名美を追いかける村木も、近隣住民から停職についてなさそうというだけで犯罪者として見られ、強姦殺人があった際に犯人と間違えて撃たれる。
・作中に出てくる男たちの描き分け、その中で村木の感情だけが純粋なもののように描かれることに違和感を感じた。
⇒強姦魔が狂人のように描かれる一方で、名美を追いかけまわす村木は相手への〝想い〟を抱えた純粋な人物のように描かれる。それはもちろん、ジャングルジムのシーンで、名美の身体に触れようとしなかった=肉体関係を求めなかったこと、彼にとっての名美はあくまでイメージの存在であることによって対比されているのだが、強姦魔が犯行に至る前に持っていた妄想自体も映像化したらあんま村木と変わらないのでは?とも思う。
⇒また名美をもてあそぶ職場の上司である(てか石井隆作品ってこの職場の上司と不倫して捨てられた女っての多い気がする。『ラブホテル』とか)。彼が彼女を都合よく遊び、具合が悪くなると捨てたことに対し、村木が純粋な存在として描かれるような構図がある気がするが(金持ちで他人の感情を利用する上司に対し、貧しくも一途に想い続ける村木)、それもなんか主人公のルサンチマン込みの妄想を一途に置き換えるための物語的な構造な気がするし、女性を自分の性的ファンタジーの中に当てはめて行く事には変わりがない気がする(そこら辺若干意識的だった気もするけど)
・今作の映画的な部分として、赤い淫画と題された写真のイメージが中心にあり、だんだん主人公の名美がそれ自体になっていってしまうというのがあると思う。それは大林宣彦とかの映画作家がしてきたのと同じ(黒沢清の『タゲレオタイプの女』とかも)、自分が思うミューズ像に女優を当てはめて行く行為で、やっぱりそれは作り手を男性とした場合のある種の映画的な演出なのだとも思う。
⇒しかし、特に性的なイメージをそのミューズ像にしている今作は、あくまで男性からのロマンでしかないと思うし、その一途に思い続けた先に彼女がそうなっていくという結末自体、ちょっと受け入れがたい感じがした。
⇒てか、昔の日本映画多いけど強姦したら愛するようになったみたいなの今見るとホントしんどいな。
・ジャングルジムのシーンが美しい。