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札幌オリンピックのSteveのレビュー・感想・評価

札幌オリンピック(1972年製作の映画)
3.5
1.幻の札幌オリンピック
札幌オリンピックは1940年の東京オリンピックの中止と運命を共にしました。当時は夏季オリンピックの開催国で冬季オリンピックも行うことになっており、札幌で同年開催されることが決まっていましたが、日中戦争により日本は東京オリンピックの開催権を返上しました。そのため自動的に札幌の冬季オリンピックも中止となりました。
国際オリンピック委員会は、代替地開催を目指し、サンモリッツ(スイス 1928年冬季オリンピック開催)、さらには、ガルミッシュ・パルテンキルヒェン(ドイツ 1936年冬季オリンピック開催)を指名しましたが、1939年の第二次世界大戦の勃発により、結局1940年の大会は中止となりました。(1944年も中止)
オリンピック憲章の「オリンピズムの根本原則」の2番目にその目的について「人間の尊厳の保持に重きを置く平和な社会を奨励することを目指し、スポーツを人類の調和の取れた発展に役立てることにある」と記載されています。
だからと言って、国際オリンピック委員会が平和への活動を先頭に立って行ったことはなく(オリンピック停戦の働きかけはありましたが)、現在においても、各国の政治に翻弄されてきた実態は否めません。よくオリンピックは平和の祭典と言われますが、単に戦時は避け、平和時に行うスポーツの祭典であるという意味合いくらいしかないのではと感じます。
さらには、オリンピックの目的を骨抜きにしかねない、忍び寄るコマーシャリズムの影も感じざるを得ません。

2.札幌オリンピックの開催経緯と時代背景
札幌は1968年オリンピックの開催の投票に敗れましたが、2度目の立候補となった1972年オリンピックの開催の投票で、開催権を勝ち取りました。幻の札幌オリンピックから数えて32年目の開催となります。
この32年の間に日本は敗戦を経験し、戦火からの復興が軌道に乗り、高度成長期の真っ只中での開催となりました。世界に目を向けるとこの時代はアメリカを盟主とする資本主義・自由主義陣営と、ソ連を盟主とする共産主義・社会主義陣営との激しい対立状態にあった時代でした。この時代のオリンピックの位置付けは代理戦争的にメダル数を競い合うとか、良く言って、束の間の休日くらいの位置付けしかなかったのではとも思えます。
それとともに留意しなければならないのは、忍び寄るコマーシャリズムです。世界の一流アスリートが一堂に会して行うオリンピックは商用面での効果は絶大です。各企業は出場選手を企業宣伝に取り込むことに神経を集中します。そして、情報手段の発達により、放映権も高騰していきます。平和の祭典もいつしかショービジネス化していきました。
札幌オリンピックはこの商業化の流れの中で堰を守ろうとした最後の大会であったのではないかと思います。

3.記録映画「札幌オリンピック」の内容
(1)概要
この映画は記録映画として篠田正浩氏が監督を務めて作られましたが、単に選手の記録を映像に保存するだけで終わらず、開催地が北海道、札幌市であることの意味、その人たちの生活や思い、その時点でのオリンピックが孕んでいる問題点、選手たちの心の葛藤、競技を支える裏方の人たちの苦労などを総合的に捉えて、カラー映像を使って客観的に表現することを篠田監督は構想し、それも成功していると思いました。
 以下個別のパーツを拾っていきたいと思います。私の感想も織り交ぜてありますが、お許しください。

(2)聖火リレー及び記者会見等(開会式前まで)
札幌市街が見渡せる大倉山90メートル級ジャンプ台から選手が喚声を発して飛び出すシーンから映画が始まります。ジャンプで飛び出す瞬間に選手の前に突然広がる札幌の街並みの上に「札幌オリンピック」の赤い文字が大きく表示されます。
まずカメラはアテネに飛び、アテネの神殿跡や遺跡を隈なく映し、1971年12月28日に青空の下で行われた採火風景を捉えます。
そして、ギリシア人の手で聖火リレーが始まり、それは京都の大晦日の知恩院の除夜の鐘と二重映しに描写されます。
聖火はまず沖縄に着き、その後東京に送られ、元日の国立競技場の聖火台に灯されます。
北海道には、稚内、釧路、函館に別々に空輸され、厳寒の中、三路に別れて札幌を目指し、そこで合火されます。営々と続く聖火リレーを通じて、各地の景勝地、生活状況等をつぶさに伝えます。アイヌ人が奏でる口琴の音色も随に挿入されます。
その合間に、突然千歳で行われたブランデージIOC会長の記者会見の様子が挿入されました。この記者会見の挿入をこの位置に入れることに対し、ストーリーの流れからすると不自然な感じを受けました。おそらく、篠田監督が記録映画を引き受けた時点の想定シナリオにはなかったシーンであり、苦肉の策としてこの位置に入れられたのではと思いました。
ブランデージ会長はこの席上で「IOCはカール・シュランツ(オーストリアの滑降選手)の札幌オリンピックへの出場拒否を決定した」と報告しました。この予期せぬ出来事は各国選手団に大きな動揺を与え、ことにカール・シュランツを含むオーストリア選手団はこの大会の出場拒否の構えを見せたため、一時事態は混乱に陥りました。(最終的には、カール・シュランツ以外のオーストリアの選手は出場)
それから、カール・シュランツは参加できなくなりましたが、開会式前に行われた恵庭滑降コースでの公開練習の内容も挿入されます。これは、予定通りの挿入のようです。
本番前の公式練習はノンストップ(スタートからゴールまで一気に滑り切る)で行わなければならないこと、このコースは瞬間速度は130km/hくらいになること、標高差788m、最大傾斜37°平均傾斜16°の氷壁で100分の1秒を争う厳しい競技であり、事前にチェックが必要であることが説明されます。
その後、また、道内の各所で行われている聖火リレー風景に戻っていきます。

(3)開会式(真駒内スピードスケート競技場)(1972年 2月3日)
未開の大地に明治以降入植した人々が北海道の厳しい自然環境に耐えて開拓した札幌で世界の祭典が開かれることに対し、当時道民は晴れがましい、また、誇らしい気持ちでいっぱいだったと思います。そして、みんながさらなる希望あふれる未来を信じていた時代だったと思います。
開会式へ向かう市民たちも晴れがましい気持ちにあふれ、心を弾ませて開会式の会場を目指しました。
 
会場の中では電光掲示板に以下の文字が映し出されます。

“THE MOST IMPORTANT THING IN THE OLYMPIC IS NOT TO WIN BUT TO TAKE PART, JUST AS THE MOST IMPORTANT THING IN THE LIFE IS NOT THE TRIUMPH BUT THE STRUGGLE” PIERRE DE COUBERTIN
(人生において重要なことは成功することではなく努力することであるのと同様に、オリンピック大会で重要なことは勝つことではなく参加することである。)と有名なクーベルタン男爵の言葉が映し出されます。

それからしばらくして札幌オリンピックのテーマ曲「雪と虹のバラード」に乗って選手団の入場行進が始まりました。オリンピック発祥の地ギリシアを先頭に、アルファベット順にカラフルな防寒具に身を包んだ各国選手団が続きます。35番目のしんがりに日本選手団が入場し、貴賓席に向かい右手を一斉に斜めにあげて敬意を表します。
引き続き、ブランデージ会長が壇上に上がり、天皇陛下に開会宣言のお願いをしました。
私は当時テレビで見てましたが、昭和天皇が開会宣言を発するまで少し長い沈黙が続き、不安に思ったのを覚えています。戦争がなければ32年前にする予定だったはずのものでした。この32年間の時間の隔たりをその時天皇はどう考えられたのでしょうか。
開会宣言後のファンファーレに続き、前回の冬季オリンピック開催地のグルノーブル市からオリンピック旗の引き継ぎも終わり、祝砲が鳴り響きます。
その時、若者たちの憧れの聖火リレーの最終ランナーが入場してきました。最初は辻村いずみ(当時札幌北高校1年)さんが、フィギュアスケートで優雅にリンクを滑り、高田秀基(当時旭丘高1年)さんに聖火を渡します。彼は一歩一歩踏みしめるようにして聖火台へ上り点火しました。
大歓声が上がり、オリンピック歌の斉唱の中、スケートを履いた子供たちが大勢入場してきます。スピードスケートの鈴木恵一選手による選手宣誓の後、ファンファーレが鳴り響くと同時に、子供たちが一斉に風船を空に放ち、11日間に渡って行われるオリンピックが始まりました。
2000年のシドニーオリンピックでは「アボリジニら先住民に貢献する五輪の開催」がテーマとなっていましたが、札幌オリンピックではアイヌ人に対する問題の配慮に対し及びもつかなかったというのが、実体かなと思います。

(4)主な競技のスケッチ等
①男子滑降
長い時間ただひたすら多くの選手の滑りを映し続けていました。選手たちは空気抵抗を出来るだけ少なくし、最短距離を狙って果敢に雪の壁に向かって滑ります。眼下には支笏湖が迫っており、湖に向かって飛び出すようなイメージです。
優勝候補のオーストリアのカール・シュランツは出場禁止処分となりましたが、オーストラリアの他の選手が3位に入り、何とかオーストラリアはアルペン王国の面目を保ったとの解説がは入ります。
それとともに、アルペン競技では、スキー板についている商標が人の目に触れないように、競技終了後すぐ競技役員にスキー板を渡さなければないことも解説されました。これも、コマーシャリズム対応です。
そして、自然保護の観点から競技終了の2時間後には環境に留意してコースが閉鎖されるということも説明されました。

②スキー70m級純ジャンプ
この競技は2月6日に宮の森シャンツェで行われました。1本目今野(82.5m)、青地( 83.5m)、藤沢( 81m)、笠谷( 84m)、2本目今野(79 m)、青地(77.5m)、笠谷(79 m)、藤沢(68m)と総合では笠谷(金メダル)、今野(銀メダル)、青地(銅メダル)と日本は始めて冬季オリンピックで金メダルを獲得するとともに、1競技で3つのメダルを獲得するという快挙を達成し、会場は大歓声に包まれました。ジャンプ台の下のところでは笠谷の親友であるノルウェーのモルクが笠谷に肩車をして祝福している微笑ましい映像が流れて来ました。
この時、中学生の私は札幌市営バスに乗っていましたが、バスの運転手の計らいで、実況放送がバス内に流れました。日本人のワン、ツー、スリーが決まった瞬間はバスの中も歓喜の渦に巻き込まれました。

③スキー90m級純ジャンプ
映像では、まず、篠田監督のインタビューから始まります。
篠田「ジャンプを始めたきっかけは何でしたか」
笠谷「ゲレンデスキーをやるにもそこにはリフトもないし、場所も遠く、また、ゲレンデの雪は自分で踏み固めなければならず大変だった。その点、整備されてないけど近くに丘があり、ジャンプは落ちることができればいいので、そこでジャンプを始めました。」
篠田「ジャンプは怖くないですか」
笠谷「30m級 50m級は比較的スムーズに飛べるようになりました。50m級を完全に飛べるようになると80m級も飛べるようになります。しかしながら、高校1年の時に古い方の大倉シャンツェを初めて飛ぶ時に怖くて泣きながら飛びました。本当にこの時は怖かった。」

2月11日に大倉山シャンツェで行われました。2月6日の70m級の純ジャンプで日本が金銀銅を独占した興奮がまだ冷めやまない時期であり、嫌が応にも90m級への期待は高まります。日本選手は笠谷、今野、板垣、藤沢の4名がエントリーしましたが、距離がのびません。かろうじて笠谷は落ち着いたジャンプで1本目106mで、2位につけます。
1本目1位は111mを飛んだポーランドの新鋭フォルトナ(当時19歳)でした。
フォルトナは鋭い飛び出しで、下から見ると右に大きくぶれながらも、111メートルの大ジャンプを見せました。
笠谷への2本目の期待が高まりますが、笠谷は運悪く横から突風を受けてバランスを大きく失い85メートル地点に落ちました。総合では7位となり、入賞を逃しました。
フォルトナは2位とわずか0.1点差で逃げ切り優勝しました。肩を落とす笠谷の横でフォルトナの胴上げが行われています。笠谷の悔しいジャンプとともに若いフォルトナの思い切りの良いジャンプが今も鮮明に頭に残っています。
父が90メートル級純ジャンプのチケットを入手してくれていたので、当日私は弟2人を連れて心を弾ませて大倉山へに向かいました。
席はあると言っても、座席があるわけでもなく、北海道の2月の寒空の中、決められたスペースの中に、ただ立っているだけです。完全防備で臨みましたが今考えると良く耐えていたなと思います。
競技が終わり、まわりからは、大きなため息が聞こえてきます。黙々と観客は帰路につきます。我々も残念な気持ちで一杯でしたが、日本のジャンプの第一人者として精進に励み、人々の期待を一身に受け、真面目に努力を重ねてきた笠谷は我々の誇りであると思いました。
この時代のジャンプは、助走路では手を前に持ってくるクラウチングスタイルを取り、飛んだ後はスキーを平行に保つもので、現在のV字飛行に比べ美しかったと思います。中でも笠谷は絶品だったと思います。

④女子フィギュアスケート
当時の競技の前半は規定と呼ばれ、氷の上にスケートのエッジで正確な図形を描くのを競う競技でした。そのため、審判員がリンクに降り立って、刻まれた氷上の図形を確認するという結構地味な作業をしていました。その中で、シューバ(オーストリア)は精密機械のように正確に氷に刻印し高得点を挙げました。
競技だけでなく、普段はカメラの入らない控え室や中の廊下にもカメラを入れ、競技前の化粧風景とか廊下でのイメトレの風景も映されて新鮮な感じがしました。
フリーでは、ジャネット・リン(アメリカ)が伸び伸びとした演技で、尻もちをついても笑顔を絶やさず、観衆を魅了しました。
金メダルはシューバが最終的に獲得しました。ジャネット・リンは銅メダルを獲得しました。彼女は明るいさわやかな印象で”札幌の恋人”と長らく呼ばれ続けました。
彼女のフリーの優雅な踊りは尾袋沼に飛来した白鳥の群れと二重映しで表現されています。

⑥鈴木恵一選手の心境
札幌オリンピックの選手宣誓者となり、スピードスケート500mの元世界記録保持者で今回オリンピック3回目の出場となる鈴木恵一もここ2、3年は記録が伸び悩んでいましたが、篠田監督は何かと鈴木に接触し、その心境を引き出そうとします。鈴木が本番を前にして、ある選手のスケーティングのビデオ取りをしているのに対し、率直に質問します。
篠田「鈴木さん、いまポイントが外れているんですか。」
鈴木「はずれてるんですよ」
篠田「どれくらいはずれてるんですか」
鈴木「わかれば苦労はないですよ」と返します。
篠田「ここ2、3日スケート履いてませんが不安じゃないですか」
鈴木「不安ですよ。でも、履きたい気持ちを抑えているんですよ。年寄りには年寄りの考えがあって。でも失敗したら元も子もないですけどね」
篠田「500mは予選のない種目なんですね。」
鈴木「500mは精神的なスポーツと思っています。だから、予選なんかあったら余計ダメなんじゃないかと思います。一発勝負は本当の勝負だって気がします。それでいいじゃないですか。」

競技が始まり、自分の番が来るまで、鈴木はジョギングをしたり、協議中の選手の滑りを見たり、控え室でトレーニングしたりしますが、本番前のデリケートな気持ちが伝わってきます。
競技が終わって、結果は本人からすると不本意でしたが、鈴木は堰を切ったように一気にこれまでの競技人生の思いを篠田に吐露します。カメラはそれを忠実に捉えます。

鈴木「僕は自分のために走った。俺はスケート界の鈴木だというプライドで走りました。記録をどうのこうのより鈴木を見てくれと思って走った。ゴールして一番に考えたのは500mは長かったという気持ちでした。23年間の総ざらいの意味もあるし、またいろんな面で苦労したことも意味するし、とにかく500mは長かったという気持ちでした。」
篠田「これでスケート脱ぐということですか」
鈴木「そうですね。僕は札幌で死んだんだし、札幌を土台としてまた生き返ってみたいですね。」

そして、これまでの鈴木の栄光の戦歴が画面に流れ、鈴木を称えます。

ー戦歴(鈴木恵一 当時29歳)—
世界選手権 優勝1964年 ヘルシンキ
世界選手権 優勝1965年 オスロ
世界選手権 優勝1968年 ヨテポリ
オリンピック 8位1968年 グルノーブル
世界選手権 優勝1969年 テペンダー
オリンピック19位1972年 札幌

⑦裏方さんの支え
(氷作りの五味さん)
「氷への情熱に惹きつけられた人が選手以外にもう一人いる。この大会の氷作りをした五味さんです。彼は冷凍パイプを埋めたコンクリートの上に根気よく水を撒いて作られた氷を確認するため、氷の温度と表面の氷の滑らかさを気遣って深夜この人は氷と頰ずりをする。ただひたすら選手たちの氷への愛を思って」とナレーションが入ります。
競技は一人ではできない。五味さんのように裏方に回って、深夜愛情を持って氷作りをしてくれる人がいるから、選手たちは最高の結果を出せると思う目頭が熱くなる思いがしました。

(旗門セッターのガストンプローさん)
「ガストンプロー氏は旗門のセッターである。旗門の構成で回転競技の性格が自ずと決定されるからセッターは慎重に旗を立てる。旗門の構成は選手の技術を最高に引き出す問題を含み、しかもスキーのリズムを損なう落し穴のない構成をしなければならない。セッターはまさに回転競技の出題者であり作曲家である。赤と青の旗は雪の上の音符だ。セッターが書いた楽譜だ。選手はそれを演奏する。その前に一歩一歩スキーで登りながらその楽譜を読み暗譜していく。一瞬のうちに通り過ぎる旗のありかをリズムのうねりを覚えて恐ろしく爽快な音楽へ出発するのだ。それに、この競技は事前の練習ができないことになっている。」とナレーションは流れます。
これも競技を支えてくれる人の貢献の大きさに対する認識を新たにしてくれる言葉だと思いました。それとともに旗門を楽譜に例え、セッターを作曲者、選手を演奏者に例える表現は詩的情緒たっぷりで豊かな表現です。
いつも豪快な選手の滑りだけが目にはいってきてましたが、選手たちが一歩一歩ゆっくり登りながら旗門の位置を確かめ、目をつぶって指を左右に動かしながら自分の記憶をたどっている姿を見て、競技の奥の深さを感じます。

⑦競技の合間
主な競技等の解説をしましたが、ボブスレーやリュージュの会場では当時の皇太子、皇太子妃(現上皇、上皇妃)が熱心に応援する姿も見られました。
それとともに、プレスルームの喧騒や、会場となった札幌の街中の取材風景(二条市場、ささら電車、クラーク博士像、ゴムタイヤの地下鉄)が印象に残っています。
当時のオリンピックはスキーフリースタイル、スノーボード、カーリングなどの種目がなく、現在と比べると結構コンパクトなオリンピックだったことに気づきます。

(5)閉会式
オリンピック旗が降ろされ、「SAYONARA」の文字が電光掲示板に写し出されます。そして、ブランデージ会長のカタカナ日本語の挨拶で閉会が宣言され聖火が消えました。
サヨナラの歌の合唱のなか、外は別れを惜しむ花火が打ち上げられ、選手たちは手を振りながら三々五々会場から退出していきます。

そこでまた篠田監督の笠谷へのインタビューシーンが挿入されます。
篠田「ジャンプはたった数秒間の競技ですよね。その競技に集中してきて10年続けている。すると一般社会に入って行った時に、笠谷さんにとって自分が今まで作り上げてきた肉体についてどんなふうにお考えですか。」
笠谷「今はスキー2本で立ってますから。スキーを自分が脱げば、両足で立てるようにまた1からやり直しでしょう」
篠田「そういう社会生活に入っていくという重さって今ありますか」
笠谷「要するに恐怖ですよね」

各種目のハイライトシーンの写真がフラッシュバックされ、フィナーレとなります。
夕暮れの大倉山上空からカメラがどんどん離れていき、札幌の雪山がどんどん小さく遠くになっていくところで映画が終わります。

4.映画を観終わって(この映画の特徴点)
この映画は単に選手の競技の記録を保存するだけで終わらず、スケートの鈴木やジャンプの笠谷に対し、監督自ら、インタビューを行い、選手の心理状態や苦悩などに触れて競技の奥行きを深めています。
さらに、競技を支える裏方の人たちの地道な貢献にもスポットライトを当て、オリンピックとは選手だけでなく色々な人の支えによって成り立っていることを心暖かく表現するのに成功しています。
これらに加えて、競技会場だけでなく、聖火リレーを通して、北海道の生活風俗、特色、歴史などにも触れることにより、多元的で人の温もりを感じさせる素晴らしい内容の映画になったと思います。
オリンピックが抱えている問題点について言うと、 「東京オリンピック」の記録映画のエンディングでは市川崑監督は「夜 聖火は太陽に帰った。人類は4年ごとに夢をみるこの創られた平和を、夢で終わらせていいのであろうか。」という平和へ向けてのメッセージが最後に流れます。
今回の記録映画では、さらにアマチュアリズムが問題点として上がってきますが、カール・シュランツの出場停止という想定外の展開が起こり、映画のどこにそれを載せるか迷ったのでしょうか、事実の掲示だけに終わり監督のメッセージがどこにもありません。
掲載する位置も、永遠と続く聖火リレーの合間に入れるより別途独立した章で取り上げ、そこで監督としてのメッセージを示した方がよかったのではないかと私は思いました。

5.オリンピックの抱える問題点
オリンピックの抱える問題点として重要な項目として以下の3点を挙げて整理してみました。

(1)コマーシャリズム
札幌オリンピックで大きな衝撃を与えた事件は、開会式の直前にオーストリアのアルペンスキー代表であるカール・シュランツがいきなり参加資格を剥奪され、選手村から追放されたことです。シュランツはオーストリアのスキーメーカーのクナイスルと契約し、「シュランツはクナイスルで勝つ」というコピーが掲げられたポスターなどが糾弾の材料とされており、以前から目をつけられていました。
札幌オリンピックの直前に行われたIOC総会では一旦処分は留保されましたが、シュランツがその後も挑発的な言動をしたため、ブランデージ会長の逆鱗に触れ、「名前と写真を広告に利用させたことが五輪憲章のアマチュア規定に違反する。シュランツは走る広告塔であってアマチュアではない。オリンピックはアマチュア選手を招待して開催するものだ」とのブランデージ会長の主張が通り、シュランツの追放を開会式の5日前の1月29日に決定し、記者会見で発表しました。IOCから五輪出場資格を奪われたのは、冬季、夏季を通じてシュランツが初めてでした。
これに対しスポーツ界は、「雪を求めて年間11カ月も家を空けるスキー選手にとって企業の援助やスキー教室は生活の糧である。建設会社を経営する富裕層のブランデージには、父親を9歳で亡くしたシュランツの境遇などには関心がなく、現実を無視したアマチュア精神の強要は度を過ぎている」と反感を強めました。

その後、札幌オリンピックの2年後のキラニン会長のときに、オリンピック憲章に盛り込まれたアマチュアリズムはオリンピックの参加資格から削除され、次のサマランチ会長の主導のもとプロ化について明確な道を示しました。
この時の理由としては、社会主義国の選手も実質的なプロであること、アスリートといえども生活者であり、オリンピック精神である「より速く、より高く、より強く」を達成するためには金銭的対価はやむをえないのではないかというものでした。
結局オリンピックは、平和という目的を顧みず、放映権の問題も含み、コマーシャリズムへと大きく舵を切り、ビジネス化することが是認されました。
現在では、オリンピックのメダリストは、各国のオリンピック委員会や競技団体から賞金や報奨金をもらうのが一般で、スポンサーからのCM出演料も高額となっています。
クーベルタン男爵が、オリンピックは勝つことではなく、参加することに意義があると言いましたが、今では、オリンピックで勝たなければ意味がないというように意識が変わっているように思います。

(2)オリンピックと放映権
オリンピックはかつては事業としては、採算割れするのが一般的でした。開催地は設備費用が莫大にかかり、それを開催側が負担することになり、結局、赤字分は開催側が税金で負担することになりことになりました。
しかし、最近では放映権が巨額になり採算を改善できる条件が整ってきて、オリンピックビジネスとしての一大利権化が確立し、利益共同体として機能し始めてきています。
(アメリカを例にすると、アメリカのNBCで、全放映権料の50%を支払っています。NBCは、2014年のソチ大会から2032年の夏季大会まで10回分の放映権料を約120億5,000万ドルとかなり高額で獲得しています。)
しかしながら、巨大な放映権料を払う放送会社は、オリンピック開催時期や放映時期についても資本の論理で口を挟んでくるようになり、選手の競技環境が極端に悪化する弊害を招いています。
平昌オリンピックの時も、巨額放映権料を支払う欧米のテレビ局が、スキー人気が根強い欧米でテレビ観戦しやすい時間帯に合わせるように圧力をかけました。そのため、男子ジャンプのノーマルヒル決勝は風の強くなる深夜に始まることとなったので、再三強風のため中断し、競技の終了は11日午前0時半と常識では考えられない時間帯で行われることになり、選手への体力的負担は最悪となりました。
また、2020年の東京オリンピックが1年で最も暑さの厳しい7月下旬から8月上旬に開催することが決まりましたが、これは、9月あるいは10月に開催される場合、米国では、ナショナルフットボールリーグ(NFL)のシーズン開幕や野球の大リーグ(MLB)プレイオフといった他のスポーツイベントと重なり、また、欧州でもサッカーシーズンの序盤と重なり、欧米の放送局としては視聴者の取り合いを避けたいという単なる利益重視の考え方でしかありません。

(3)オリンピックにおける平和の達成状況
オリンピックはコマーシャリズムが色濃く浸透し、世界の平和という観点が霞んでいる状態と言えると思いますが、札幌オリンピック以降どのような事態が起きたのか見ていきたいと思います。

ミュンヘンオリンピック(1972年)
これは史上最悪のオリンピックだったと思います。それは1972年9月5日に西ドイツのミュンヘンでパレスチナ武装組織「黒い九月」によるテロ事件が起こったことです。  
実行グループの名前から「黒い九月事件」とも呼ばれていますが、ミュンヘンオリンピック開催中に実行グループはフェンスを乗り越えて選手村に侵入し、イスラエルの選手11名を殺害した事件です。
その時イスラエルではオリンピックの中止を求めて、デモが起きましたが、ブランデージ会長は競技の続行を決定し、翌日午前中に追悼式を行った後、夕刻から競技は続行されました。
この事件に対しイスラエルは報復措置としてPLOの10基地を空爆し、シリア、レバノン側は100人前後の死者が出ました。

②モスクワオリンピック(1980年)
1979年12月ソ連はアフガニスタンへの侵攻を挙行しました。これに対し、冷戦下、ソ連と対立関係にあるアメリカはオリンピックのボイコットを主唱し、西ドイツ、日本、韓国、中国などやイスラム諸国合わせて50カ国がオリンピック参加を見合わせました。

③ロサンゼルスオリンピック(1984年)
西側諸国のモスクワオリンピックをボイコットしたことの報復として、東側諸国13カ国がロサンゼルスオリンピックをボイコットしました。

④リオデジャネイロオリンピック(2016年)
ロシアが国ぐるみで競技選手のドーピングに関わってきたことが発覚し、同国選手がオリンピックや国際大会へ出場することが禁止となった事件で、2016年のリオデジャネイロオリンピックでは陸上や重量挙げなど有力選手を含む100人以上が出場禁止となりました。

ミュンヘンでのテロで選手が殺害され、その報復が空爆に発展し、さらに多くの一般市民が殺されました。平和を希求するオリンピックが、戦争の直接の引き金になったということで、オリンピックを中止してその存在事態をしっかりと考え直すべき時期でしたが、その中で競技を続ける判断をしたことは、「オリンピックは平和とは関係ない」、「事業として利益を追求する手段だ」と自ら宣言しているに等しいと思いました。
また、モスクワおよびロサンゼルスの両オリンピックでのボイコット合戦は、地域紛争をそのままオリンピックの場持ち込む方法を取り、平和の祭典とは間違っても言えない事態を招いたことになります。
リオデジャネイロでのロシアのドーピング問題は、ロシアは国を挙げて「どんな手段をとっても勝たなければならない」というスタンスをとって来たことが発覚した事態でした。
結局、オリンピックの目的を理解し、それをどのように実現していくかに対し、誰もまじめに考えようとしていないのではないかという思いに辿り着きました。

6.デンバーオリンピック(1976年)の開催返上
当時私は、オリンピックの開催地に選ばれること、それは、世界中から優秀なアスリートが集まり、すばらしいパフォーマンスを繰り広げ、その情熱を共有することができるとともに、自分の住んでいる地域が世界中から注目され、名誉づくしであると思っていました。
しかしながら、札幌の次のオリンピックを開催することになっていたアメリカのデンバーが住民投票の末1972年に11月に開催の撤回する決定をしたと聞いた時は大変驚いたものでした。
撤回理由は、自然破壊が起きることや経済上の理由からというものでした。
表面上の華やかさに目をとられ浮足立つところを、住民が客観的に損得の比較衡量を行うとともに環境問題にも思いを巡らし撤回を決定したことは、あの時代にあってよく判断したと思いました。我々より大分先を見ていたなと思いました。


7.最後に
札幌オリンピックは、東京オリンピック同様、敗戦から立ち上がり復興を遂げ、経済成長を遂げている姿を地方の振興都市の面からお披露目するとともに戦後の平和主義の日本の姿を示すために、暖かく世界の人達をもてなそうという意識の中で行われた大会だと思います。そして、日本国民、札幌市民が心から一体となって開催を進めることができた最後の時代だったと思います。
その後社会が成熟を遂げ、多様化が進み、さまざまな歪みを抱える現代においては、かつて信じられなかったデンバーの開催返上も以前よりも理解できるようになったと感じます。
50年近い時を隔てて、当時の明るい未来を信じる時代の雰囲気と閉塞感漂う現代との違いを認識せざるを得ない思いにとらわれます。
札幌市は2030年の冬季オリンピックの開催に立候補する予定ですが、今の趨勢を考えるとオリンピックを存続させること自体に大きな疑問を感じます。
絶望感はぬぐい切れませんが、もし立候補して開催が札幌に決定した時は、オリンピック設立時の理念に帰るとともに、コマーシャリズムの波に呑まれることなく、新しい意味での開催意義を示す義務があると思います。
スポーツのパフォーマンスに力を入れるだけでなく、例えば、戦争に加担した国をある一定期間オリンピックに参加させないとか、IOCは定期的に世界各国のオリンピック委員会を回ってオリンピック憲章に基づく平和教育をするとか、オリンピックでは参加選手も入れて真剣に世界平和を考える会議も同時並行的に行うなどいろんな方法を考えれるはずです。(電子書籍 手前味噌の名作映画観賞 参照)
Steve

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