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8月の家族たちのotomisanのレビュー・感想・評価

8月の家族たち(2013年製作の映画)
4.1
 オクラホマ州オーセージ郡の夏。郡都ポーハスカのある日の14時37分、晴れ、雲量0、気温は摂氏42度。日本ではこの件ひとつでドラマが作れるだろう。
 そんな酷暑の地になぜ人が入植したのだろう、先住民を駆逐してまで。そしてその子孫は半世紀で土地を荒らし、1930年代、大砂塵に巻かれて農業に挫折し貧困の中、40年代には車上生活まで落ちぶれても我が耕作地を離れない。しかし、遂に次代ベバリーはポンティアックの車中で学を積み、文学者として成功する。ところがそれでも彼らはこの地に屋敷を構えて暮らしている。危険なほどの炎暑の中、空調も用いずに熱いトタン屋根の上の猫のように辛抱強く生きている。

 車上生活に陥った先代たちはその親、そのまた親がそうであったように東部をはじめとする都会に経済的あるいはそれ以上に心情的に居場所が得られそうにない者たちだろう。それでも息子や娘は自分似の親とポーハスカの街とを比べてどちらが良いか考えることぐらいあったろう。
 だが、ベバリーが詩人として成功しても、たつきの道とは無縁なこの農村に留まり"Meadowlark"のように生きざるを得ないのも、都会での人と接し付いたり離れたりの繰り返し、目まぐるしい喜怒哀楽の嵐に馴染まない血筋のせいかもしれない。そこで辛抱強く似た者家族とともに辛辣烈火の暮らしを闘うことになる。

 辛辣な親はより辛辣な世間を子どもに語る。親子の周囲は見渡す限りの荒れ野か他人の抵当に入った土地で辛うじて誰かの小作か僅かな副業で食い繋ぐ日々である。見晴るかすその先の都会は一家の初代が見捨てた、もしくは排除された過酷な賃労働と都市社会、産業社会、身分人種分断下を生きる資質で分級化された階級社会である。
 ベバリーもバイオレットもそんな親の子であり、その娘たちも多かれ少なかれ同じ血を享け、そんな血を寄越したことをあるいは憎んで親元を離れずにはおれなくなったのではないか。

 それなのに父親ベバリーが失踪し死亡が確認され、そうなった事情もはっきりさせないまま、また、似た者過ぎてそりが合わない母と娘3人のきっと長くはない日々をどうするかも見通せないまま、第一の決裂までを付き合わされる事が苦痛ではないのが不思議だ。
 この親子には、テネシー・ウィリアムズの父子のような愛のすれ違いは感じられないし、後継者ブリックにおける、想いのすれ違いも矛盾も清濁併せ吞ませるようなふりもさせていない。娘たちはみなこころを丸出しにするようである。
 もとより、この母娘では愛が何やら分からないような次第だし、美田を残す事が一族安泰の道であるような名門大家でもなく、懐と心とすべての貧しさだけ引き継いだような一家のベバリーによる文化的大躍進ののちの相も変らぬ火宅が三姉妹に、離婚の危機、年替わりする恋問題、恋を裂く血縁問題と、今まさに引き継がれようとしている。その火中の更なる親子紛争にどんな和解の種が残されているだろうか、多極化する課題を包括的に問い直す、実はそのためにベバリーの死が用意され、皆がこの家に集まったことを誰もが信じていたはずなのだが、その再生を問う結末である。

 一世紀前のウィリアムズが大農場を引き継いだブリックひとりに同時に多くの矛盾する想いを背負わせたのとは対照的に娘3人はそれぞれの悩みと母への嫌悪を斥力として親元を去るが、彼女等もまた帰るべき先が確かなわけではない。
 結局、向かう先での孤独や我が身の不確かさに悩み、先達たる孤独者バイオレットの元に世間からのはぐれ者、似た者同士として帰ってゆくような気がする。そこにはブリックに感じられる若さと将来があるわけではない。彼女等には遠からぬ母親の死と自らの老化、所詮他人の土地に孤立した一族の苦難の歴史の象徴たるこの家があるばかりである。

 母親が生きる術のように伝授された厳しさが人を遠ざけるだけにしか働かなかったように見えるのを、どう矯正してついに壊れた娘3人は人生に生かすのだろう。しかし、娘たちを前に若作りを自らに強いたバイオレットを眺めるにつけ、娘らについて、どこか不毛な問いを投げられたようであり、いっぽう次代は僅か二人となったウェストンの血を幻滅の末に絶やすのか、また、誰かに伝える言葉としてオーラルヒストリーに回収するのか、まさにこの一編こそ、その第一章を画しているともいえよう。しかし、第2章の書き出しにバイオレットはどう参画できるだろう?その鍵を握るのが一家のヘルパー、流氓の末裔たるシャイアン族のジョナである事に黒々とした笑いを感じるとともに、こうして歴史の輪が閉じ、自滅する者たちにもはや未来はない事を予感するのだ。
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