『まほろ駅前狂騒曲』@109シネマズ川崎
シリーズ最新作 2人の姿の可笑しさだけにあらず、ヒリヒリする胸底の痛み、不通の現実、複雑さ内包する多田行天の影の姿に人間味を感じさせる潤いあり。人がどうしてそこにいて何処に行くのかの存在を巡る物語に感慨ひとしお。切実な感情的モチーフが覗く心の地肌に映画を感じた
「まほろ」は細かいエピソードを含め「喜怒哀楽」がある。大根監督の人物造形の作り込み(個性&特性の引き出し)キャラ立ちの才もあり多くのファンを獲得した前作『番外地』を「喜」や「楽」とするなら、今作は映画1作目『多田便利軒』の「哀」の部分を引き継いだ作品となっている。
BL要素を含んだ胸熱バディムービー路線(シリーズ物の映画化=お祭り)もあったはずである。しかし大森監督は自由奔放な2人を手繰り寄せ丁寧な筆致で少し彩度を落し本来の姿を描いていく。この物語は悲しみを背負って生きている"まほろ"の人々の「個」と「孤」の物語でもある。
幼少期に親からの暴力を受けて育った行天、自分の子供を亡くし離婚した多田。過去の消せない記憶とどこで折り合いつけ落とし前をつけるか、親と子「家族」を考える意外にもシリアスな題材が支柱を支える。多田と行天それぞれが傷心を真直ぐ見据えないよう努める「何者にもならないという意志のための仮装」は2人の出逢いによって少しずつだが補完され浄化されていく。主張を声高に叫んだり説き伏せたりはしない関係性が心の強ばりを氷解する。互いの傷を理解出来なくとも寄り添う事で受け入れる事は出来ると不器用は不器用なりの貫かれた誠実さがあるのだと。そうせずにはいられなかった決断によって新たな一歩を踏み出す2人の再生。これは時間をかけて「魂」を獲得するまでの物語なのだと思う。
とはいいながらも彼らの些細な言動のやりとりの愛おしさやサブキャラも健在。グレイトーンの物語に日が差仕込む「希望」もある。家族の物語という括りで言えば、多田と行天の共同生活は互いのダメな部分に目を瞑る偽装家族であり、多田と行天にはそれぞれの家庭/家族があった新興宗教という家族、やくざという組織の家族、まほろで暮らすふがいない人々も大きな括りでの家族。大森監督の家族でもある実弟 大森南朋や実父 麿赤児、「さよなら渓谷」の真木よう子と大西信満、「ぼっちゃん」の水澤紳吾と宇野祥平という愉しい「お遊び」もあり心憎い。
「まほろ」の面白さはこんなもんじゃないという思い(内省的な部分半分 エンタメ半分位が良かったかなと…)次作の期待を込め少々辛めの点数にしました。ゴメン。