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卍 まんじのotomisanのレビュー・感想・評価

卍 まんじ(1983年製作の映画)
3.7
 高瀬春奈の痴態醜態が、日暮れて道遠しな主婦園子のどん詰まり人生最終幕において断末魔の踊りを呈するが如くである。
 そんな内面地獄に引っ張り込まれたのが謎めいた光子。分かってか分からずか園子についには引導を渡す格好だが、暴力スカウトで弾けてとうとうウチんとこに来い、と園子から迫られるほど同じS極同士な血を感じてしまったか?
 極性が同じで引っ付き合うのを奇観と覚えるなら大丈夫、しっかり副作用は制度的文化的圧迫として園子を蝕み、また光子には第一子を授ける。ただ、当然それは園子との夢の子ではなく、そのことに、一層蝕まれた園子は自分のお払い箱を悟らされる。

 園子とはなんであろうか?結婚から10年、夫の刑事、社会制度の守護者、壊乱する風俗を苦く思う者にして非番画家、文化的前衛として刑事生活現場の肉感を●●●へと昇華させた表現者という、複雑多様的存在のかたわらに在って、歴史的背景さえ欠如、さらに、子を儲けないとする事情の不明さ、万引きに走る事の背景の不問、光子と関係に至る計画性、必然性の微塵もない無思慮ぶりという空っぽさであって、園子を特徴づけるのは話の成り行きひとつしかない。この薄っぺらな具合が夫、原田とのアンバランス、対蹠性を際立たせるのだ。
 こんな園子のふらふら性では自身ひとりで亭主圏から離脱するに足る加速力は得られない。しかし、亭主の存在から最遠地点の万引き現場でニアミスした光子が懸念の一穴となり、さらに転じて思いがけず救い主に感じられてしまう。すなわち亭主と異なる存在感で園子と同じ速度感で生きてる広い世界の唯二つ星と互いが信じられるのである。

 こんな関係は亭主を社会的質量大な恒星に見立てれば、園子はさながら彗星のようなものだ。質量において極端な差を園子は運動量で補う。遠日点たる万引き現場で出会った光子ともつれ合いどこか遠くへ旅立つかと思えば、どっこい二人して再び亭主に回帰する。
 園子にとって光子は火遊び程度の軽い存在では済まない。似た者感にほだされて、亭主と光子を周回して存在を保とうと企んだ園子だが、いつか三人同居で組んつほぐれつの夢を見始める?これはもうお手上げである。
 
 自然界も嫌う三体問題を人間界に持ち込んで、如何にして亭主を屈服させようか。園子with光子好みの変態ワールドを狼ごっこや警察ごっこなんかで変態力を引き出せば、世間の常識も良俗もなんのその、社会の隙間、世間の涯、世界の終わりのコンクリートの密室(現代的アパートとか官舎ともいう。昔の官舎は熊ん八っぁんな長屋だったのに)、殺人現場(見上げればホテルオークラな人界の谷底)、海の畔(非人間界の入り口)と彼らは経めぐって入れたり出したりしゃぶったり、普通に光子も身籠れば、普通に三体の関係は四体問題化に変わるわして、園子は普通にカオスな現場から弾かれるのだ。
 四体目に急かされて園子が人間界を退場すれば後には新たな三体問題が持ち上がる。その環境は警察社会と道徳社会の洗濯板、汚れを落っことせば何体生き残れるだろう?

 そんなことに興味はねえよと作家は事を切り上げるが、この後腐れの種こそ園子の観念上の楽園のキーパーソン、光子との幻の子、夢の子の受肉である。愛人業に開き直って生きられるようなら耐えられたろうに、男とのかりそめな関係なんぞ耐えたくない園子のこころの◇◇◇さが結局現実を前に枯れ落ちてゆく。
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