ナガエ

ホームレス理事長 退学球児再生計画のナガエのレビュー・感想・評価

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いやーホント、なんか色んな意味でざわざわさせられる映画だった。ホント、何をどう感じたら良いんだろうなぁ、という感じ。

映し出されているのは、「『高校中退した元球児』を集めて再教育するNPO」であり、メインで登場する人物が3人いる。理事長の山田豪、野球部監督の池村英樹、そして野球部員の1人である小山雄嗣である。

3人が3人とも、それぞれ色んな形でざわざわさせる存在なのだが、中でも一番はやはり理事長の山田豪だろう。

本作のタイトルが「ホームレス理事長」となっているのでなんとなく想像出来るだろうが、彼は自身が立ち上げたNPO「ルーキーズ」をどうにか存続させるため、自宅の電気・ガス・水道の支払いをせず、挙句の果てに住んでいたアパートを家賃滞納で追い出され、マンガ喫茶で寝泊まりしていた。ちょっとあり得ないだろうと思う。

映画の中で監督の池村英樹は、理事長のことを「愛すべきアホ」と評していた。確かにその気持ちは分かる。僕の感覚を書くと、「好きか嫌いかで言えば嫌いだが、凄いか凄くないかで言えば凄い」という感じである。

彼は本当に、「子どもたちのやり直し」のためだけを考えて行動しているのである。作中、彼がある申込用紙に記入しているシーンが映し出される。撮影スタッフが聞くと、明らかにヤミ金に手を出そうとしていることが分かる。どう考えてもヤバい。撮影スタッフが「危ないと思いますよ」みたいなことを言うのだが、それに対して彼がこんな風に答える。

【NPOが無くなることの方が危ないわけじゃないですか】

彼は、自分自身がどうなろうとも、とにかく「NPOを守る」「子どもたちの再教育をなんとしてでも続ける」という信念を捨てないのである。

これはちょっと凄まじいなと思う。ヤミ金の場面の前段、金策に追い詰められた彼がなんと撮影スタッフに金を借りようとする場面も映し出される。この場面は、「人間が崩壊していく様を切り取っている」みたいな感じがして、いたたまれない気持ちになった。「金を貸すことは出来ない」と断った撮影スタッフの判断はもちろん正しいと思う。しかし、「人間の形を保つのが限界」みたいな崖っぷちにいる人間が目の前にいる状況で、金は貸せないと告げるのも大変だっただろうし、道理が通らないと分かっていながら金を無心するしかない理事長が土下座する様をカメラで撮らなければならなかったこともまた、相当の苦しさだったのではないかと思う。

この「撮影スタッフに金を借りようとする場面」でも、彼の信念が伺えた。彼は撮影スタッフに、「自分は何が足りていないんでしょうか?」と問う。映画では、理事長があちこちに金策に回る様が映し出されるのだが、とにかく金は集まらない。だから切羽詰まって、「自分の何が悪いのか教えてほしい」と撮影スタッフに聞いているのだ。

その中で彼は、「私利私欲などまったくないし、人様のために努力しているつもりなんだけど、全然伝わらない」と心中を口にしていて、いやホントその通りだよなぁ、と思ったりした。

映画を観ながら、「金集めが下手な善人」と「金集めが上手い悪人」みたいなことを考えてしまった。理事長は明らかに前者だが、金が集められないためにその善意を上手く発揮できない。一方、どれだけ悪人であっても、金集めが上手かったらやりたいことが出来る。なんというか、理不尽な世の中だなぁ、と感じた。

僕は正直、「信念だけで突っ走るのは無理があり過ぎる」と感じてしまったし、そういう意味で彼のことはどうにも好きにはなれない。しかし、やっていることややろうとしていることはとにかく凄いと思う。映画の最後には、ルーキーズにやってきた頃にはカメラの前でも暴れていたような子たちが、「ここが無くなったらマジで困る」とカメラの前で語る姿が映し出される。社会に大きなインパクトを与えるような成果とは言えないかもしれないが、確実に山田豪に救われた人間がいることは分かる。それはやっぱり凄いことだと思うし、彼のような人間にしか成し得ないことが間違いなくあるだろうとも感じた。

さて、次は監督の話をしよう。本作のHPには、「このドキュメンタリーは、もうテレビでは見られない」と書かれている。名古屋で放送した際、凄まじく苦情が殺到したらしく、その後フジテレビでも放送し、フジテレビも後に謝罪したそうだ。

そして、その理由となったシーンが、池村英樹監督による「体罰」である。カメラの前で、部員の1人を9回も平手打ちする様子が捉えられているのだ。

さて、この点について、僕個人の考えを書いておこう。結論だけ先に書いておくと、「『体罰は常に悪』とは言えない」と僕は考えている。

体罰に限らない話だが、世の中のあらゆる面で、「『目に見えること』でしか物事が判断されない」という方向に進みすぎていることに怖さを感じることがある。

もちろん、「最終的な決着」は「目に見えることで」で判断される必要があると思っている。「最終的な解決」というのは、ざっくり「裁判」や「和解」などをイメージしている。法治国家に生きている以上、「何らかの形でトラブルを解消する」必要があるし、そうであれば、「最後の最後は『目に見えること』で判断するしかない」となるのは仕方ないと思う。

つまり、「トラブルの当事者が何らかの『解決』を望む場合には、『目に見えること』で判断されて然るべき」というのが僕の基本的な考えである。そしてそれは、裏を返せば、「当人同士が『解決』を望んでいないのであれば、『目に見えること』だけで物事が判断されない方がいい」という話に繋がっていく。

さて、本作で映し出される「暴力」について考えてみよう。殴られたのは小山雄嗣で、彼は「色々あって自殺未遂をしたために、試合が行われる球場までパトカーでやってきた」という状況にいる。そして、遅刻した理由を監督に話している最中に殴られるのである。

監督が彼を殴ったのは、「自殺しようとした」と小山が話した時である。そしてその後、ざっくり要約すると「死のうとするのは絶対にダメだ」という言葉を強く伝える。後に体罰を行った理由について撮影スタッフがインタビューした際も、「口で言うだけでは弱いと思った」「ここぞという時には『逮捕されたとしてもやる』と決めていた」みたいなことを言っていた。

「逮捕されたとしても」という言葉が出たのは、彼が実際に体罰で逮捕されたことがあるからだ。岡山の高校で野球部の監督をしていた際に体罰で逮捕され、彼は野球界から追放された。カメラの前でそのことにも触れており、「悪いことをしたとは思っていない」「生徒のためだと思っていたが逆恨みされた」みたいなことを言っていた。

さて、先程の僕の基本スタンスからすれば、「池村英樹が岡山の野球部監督時代に逮捕されたこと」は仕方ないと思う。彼の認識がどうあれ、生徒の側が「これは解決を望む問題だ」と認識したのだから、そうであれば「目に見えること」で判断されるしかない。どれだけ「相手のため」と思ってやっていることであれ、それが相手に伝わっていなかったのであれば、行為者の責任だ。そして「殴る」という行為は当然逮捕に値するものなのだから、彼が逮捕されたことは「当然」だと思う。

しかし、小山雄嗣の場合はどうか。僕の理屈では、「彼が解決を望んでいたかどうか」が問題となる。そして、あくまでも僕の捉え方に過ぎないが、彼は「監督から殴られたこと」を「解決したい」とは考えていないように見えた。そしてそうだとしたら、「殴った」という「目に見えること」を殊更に取り上げることが、果たして「正義」なのかと僕には感じられてしまう。

もちろん、こういう反論があることは十分理解している。体罰や暴力に限らないが、「酷い状況」に置かれた人が、「報復を恐れて」「それが問題であると理解できないほど洗脳されていて」などの理由によって、「解決したい」という気持ちをそもそも持てずにいる可能性だってあるだろう、と。DVや性被害、あるいは宗教問題などで顕著だろうが、「解決を望むことによってより大きな被害を受ける恐れがある」とか、「恐怖や支配によって正常な思考が保てずに、『解決を望んでもいいんだ』という思考にさえたどり着けない」みたいな状況はあると思っている。そしてそのような場合には、当事者とは関係ない第三者が強制的に介入して解決を模索するしかないだろう。もちろん、そういう状況ならそのような判断は正しいと思う。

しかし、本作で映し出される「体罰」は、そのような状況だろうか? これももちろん、観る人による個々の価値観によるから一概に言えないが、少なくとも「カメラの前で行われていることである」という1点だけを捉えてみても、先に指摘したような状況にはないと判断していいのではないかと感じる。

であれば僕は、「当事者ではない外野が介入する余地はない」と判断してしまう。小山雄嗣が「なんらかの解決を望んでいる」という意志が僅かでも窺えるのであれば、池村英樹監督は逮捕なり何らかの処罰なりを受けるしかないだろう。しかしそうでないなら、外野が出る幕はない。

僕はそんな風に考えているので、あの体罰のシーンを見て苦情を言う人間のことが理解できない。別に「受け入れろ」などというつもりはない。体罰のシーンを「不快」に感じたのならそれでいい。1人でそう感じていればいいのだ。それをわざわざテレビ局に言う必要はない。SNSに書くぐらいはいいだろうが、あくまでも「私は不快に感じた」という表明が許容されると感じるだけであり、それが監督やテレビ局への「批判」になってしまったら、それは間違いだと僕は思う。

一応書いておくが、別に僕は「体罰を許容している」つもりはない。そうではなく、「当事者が『解決したい』と望んだ時点で、その行為に『体罰』というラベルが貼られる」と考えているだけだ。そのラベルが貼られるまでは、殴ってもそれは体罰ではない、と僕は思う。まあこの考え方は一般的に許容されないだろうが、まったく間違っているとは思えないんだよなぁ。

さて、小山雄嗣についてはあまり触れないが、彼は彼でまたややこしい人物であり、分かりやすくない。しかし一方で、「小山雄嗣のような人間こそ、山田豪はすくいたいと考えているのだろう」と感じるし、その無謀さと果てしなさにちょっと打たれる感じがある。

あと、皮肉的だと感じたことがある。割と最初の方で、NPOの経営状態がかなり悪いというミーティングが映し出される。このNPOは、生徒1人から年間70万円のお金を取り、さらに支援者からお金を集めて運営されているのだが、2011年度の収支はなんとマイナス1300万円。笑っちゃうぐらい成り立っていない。そしてスタッフの1人から、「毎年2人ぐらい受け入れないと収支がトントンにならない」と指摘される。

これを聞いて、難しいものだと感じた。というのも、恐らくだが山田豪の本当の理想は、「高校を中退するような球児が現れないこと」だと思うのだ。しかし、そんな彼らを救おうと設立されたNPOは、「高校をドロップアウトする球児」の存在を当て込まないと成り立たないのだ。「交通違反検挙のノルマを達成するために交通違反を取り締る警察」みたいな矛盾があるように感じて、やるせない気持ちになった。これは別に批判とかそういうわけではまったくないのだが、世の中のままならなさみたいなものを痛切に感じさせられた。

なんかホントに、「金集めが下手な善人」が報われる社会になってほしいものだと思う。ちなみに、映画の最後にその後の状況が字幕で表示されたのだが、NPO「ルーキーズ」には支援してくれる企業が現れ、金策はどうにかなったようだ。僕みたいな人間は外野から無責任に声を上げるぐらいしか出来ないが、とにかく「死なない範囲で頑張ってほしいな」と思う。
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