KnightsofOdessa

アフタースクール(原題)のKnightsofOdessaのレビュー・感想・評価

アフタースクール(原題)(2008年製作の映画)
4.0
[氾濫する"他人の記憶"の中で] 80点

紙を破って喜ぶ赤ちゃん、男女の取っ組み合いの大喧嘩、自転車ワザの顔面着地、絞首刑のスナッフフィルム、ピアノを弾く猫、血まみれの戦地、そしてAV。主人公ロバートが画面越しに眺めているそれらの情報は、(当時から考えて)一昔前なら考えられないほど過激で過剰で、しかもワンクリックで得ることが出来る。全寮制の名門私立高校に通うロブはそんな動画が大好きで、存在しなかったビデオ部なるクラブを一人で始めるほど。彼には友人もいるが、十代の学生らしく孤独感もあり、二言で形容すれば"混乱してるが無害"な生徒である(これは先生が彼を評した言葉)。果たして本当にそうなのだろうか?動画投稿サイトのサーフィンが好きな、ただの高校生なのだろうか?この疑問から一般的に導き出されるのは有害なネットによって青春や人格すら毒された人間を観察して、ネットを規制するかどうかという話かと思ってたが、そこは病的な人々を描き続けるアントニオ・カンポスなのでそんなことは起こらない(安心)。

廊下を撮影していたある日、ロブは学校のマドンナ的存在だった双子のタルバート姉妹が血を吐きながら倒れ込む姿を撮影してしまう。廊下には彼しかおらず、廊下でのたうち回る姉妹に近付くロブの後ろ姿をビデオは撮影し続ける。彼はついに人が死ぬ瞬間をカメラに収めたのだ。そして、それが縁で同じビデオクラブに所属するエイミーと共にタルバート姉妹のメモリアル動画の撮影を任されることになり、普段どおり無気力に任務を遂行する。しかし、彼が経験することとなった現実としての人間の死や初体験は、"画面越しに"経験した疑似記憶の再現でもあり、同時にそれらは(映画として/映画内映像として)映像化されることでロブ以外の人間の疑似記憶にも連なっていくという不可思議な構造を持っている。だからこそ、冒頭からずっと分けられていた映画としてロブを観察する我々の"目"とビデオカメラを使って人々を観察するロブの"目"が、最終的に同化していくのは必然とも言える。

劇中に二度登場する"完成版追悼ビデオ"は、ロブ編集版と校長再編集版の二種類があるのだが、後者が一般的なものであるのに対して前者のエグり方が凄まじい。追悼の言葉を述べる生徒の顔はピンぼけ、全く関係のない言葉を紡ぐ生徒、言葉を発さない両親に写りを気にして撮り直しを要求する校長、と人々の"本当の姿"のオンパレードだ。しかし、体の一部分か極端な望遠で全体を小さく写すショットによって、人間の二面性以上に強調されるのは、それらすらも一部分に過ぎないということを示しているのだろう。過剰に供給される情報たちのそれぞれに、そういった複雑な事情まで付いて回り、我々はそれと共に生きていかねばならないのだ。

無気力で無軌道だが欲望には忠実、次作『Simon Killer』のサイモン青年との共通点を探すのには苦労しない。最終的に真実か妄想かも分からない映像が差し込まれるとこまでとことん似ている。私は同作が本作品の精神的続編であると信じて疑わない。

ロブは姉妹の片割れの口を塞いだのだろうか?最終的に同化していく我々の"目"とロブの"目"が訴えかけるのは、本作品自体もロブの、或いは監督や役者たちの疑似記憶として機能しており、写っている以上後者には真実かもしれないが、映画である以上ロブにとって真実とは言い切れないのだ。
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