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ニンフォマニアック Vol.1のchi6cuのレビュー・感想・評価

ニンフォマニアック Vol.1(2013年製作の映画)
4.0
Vol.1.2共に鑑賞。
ラース・フォン・トリアーという監督に「絶賛」という言葉は嫌味でしかなく、「とにかく不快」とか「二度と観たくない」とか言われることを求めて制作しているのだと思うのだけど、
「ニンフォマニアック」4時間のマスターベーション。
申し訳ないが絶賛。

色情狂の話というのはある意味「鬼才」と呼ばれる監督たちの課題作みたいなもので。
最近ではフランソワ・オゾンの「17歳」、スティーヴ・マックイーンの「シェイム」など・・。
いままで男女問わず数多くのセックス依存症の映画を観てきた。
そしてそれらは実に傑作が多い。
なぜ傑作と感じるのかは、やはり人間の恥部、描くことが倫理的にタブーを感じさせる欲望の結晶だからだと認識している。
色情狂の作品群に共通しているのは、セックスが恋愛の延長線上に存在しないという点である。
登場人物の多くは「好きな人とのセックス」に失敗する。
そしてセックスという行為に一度は絶望し、「大していいものではない」と思い知るのにその欲望から抜け出せなくなってしまう。
依存症とは「ないものねだり」である。
愛する人との感動的なセックスを得ることが出来ないことにより、愛が混じらずとも感動的なオーガズムを求めて、「ニンフォマニアック」のジョーはひたむきにひたむきに生きる。
そこに愛が存在しているのか、なんて関係ないくらいに、セックスのために生きている。

ストーリーは8部構成。
傷だらけで倒れていた中年女ジョーを初老の紳士セリグマンが助ける。
彼の家で介護を受け、ジョーは身の上話を始める。
彼女のこれまでの人生。それは性欲に支配されためくるめく「色情狂(ニンフォマニアック)の世界」だった。
私たちはセリグマンとともにジョーの人生をたどっていく。
このセリグマンのキャラクターがとにかく可笑しく、第一章から爆笑だった。
博学な彼は奇想天外なジョーの性欲の話を何とか飲み込むために自身の持ちうるすべての知識を活用して話を結び付け、こじつけの解説を加える。
ジョーはそれに呆れるでもなく受け流すでもなく、淡々と受け入れ振り返っていく。

セックスが関わると見えてくるのは自身以外の人の欲である。
各々の趣向から、人間性が垣間見える。
ジョーが唯一愛してしまった最低男ジェロームは、性格を語られる以前からそのセックスのみでひどい男だとわかる。
この表現方法にラースの罠を感じてしまった。
そしてジョーはその「最低」の虜になる。
はっきり言ってこの作品はラース・フォン・トリアーの集大成である。
彼を知る人なら、誰が観てもそう思うだろう。
彼の過去の作品のエッセンスが全て盛り込まれており、いつか見たあの光景に観客は息をのみ、その反応さえも楽しむラースのユーモアが混在している。
一貫して彼が描くのは、それでも、それでも「愛」だ。

「人間的な愛」というものはなんなのか?
ラースの作品を観るたびに鑑賞後2週間は苦悩する。
毎回「もう二度と観られない」と思う癖に、新作が作られると安堵する。
しかし、「ニンフォマニアック」を観て、うかつにも彼はこれで映画と撮るのをやめてしまうのかもしれないと思ってしまった。
そのくらいの説得力とやりきった感があった。

「愛とは、嫉妬交じりの強い性欲に過ぎない。」劇中語られるこの言葉が、きっと今までの彼の描き続けた「愛」の答えだ。
色情狂のジョーはそんな愛に駆り立てられ、体が壊れるまでセックスをする。
観ている側には快感なんて存在せず、ひたすらに痛い。
嫉妬、嫉妬、好奇心、高揚、失望、嫉妬。その繰り返し。
愛そのものが欲なのか。
欲というものをどうしても人は汚らわしく思ってしまう。
無欲は尊く、強欲は恥。
そう教えられてきた日本人。
でも、ラースの作品に登場するひたむきに強欲な人間達をみて、強烈な違和感を感じつつも、
憐みなのか、同情なのか、憧れなのか、
不思議と私は感動してしまう。

劇中、語り終えたジョーはまるでマグダラのマリアのごとくの穏やかな表情で、この先の人生に希望を見出し、哀しき紳士セリグマンとともに美しき夜明けを迎え、ああ、なんときれいなラスト。

と思った矢先の強烈な地獄!!!

場内は唖然として一同一斉に絶望する。
これが現実だというならば、なんて世界は残酷なのか。
私達は4時間かけてラースに嬲られていたのだと気づく。
この世界一正直で臆病で大胆なド変態監督め。
してやられた!やっぱり絶賛!
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