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複製された男(2013年製作の映画)
3.8
 カナダ・トロントの無機質な高層ビル群、母親からの留守番電話。マンションの一室で夜な夜な行われるヌード・モデルの鑑賞会、秘密のカギ、銀皿の上に置かれた蜘蛛が妖しく蠢く。大学で歴史学を教えるアダム・ベル(ジェイク・ギレンホール)は新しい生活に慣れたように見えるが、どこか神経症的な症状を抱えている。独裁者たちは支配することを望んでいるという歴史の授業、その夜現れた恋人メアリー(メラニー・ロラン)との愛あるSEXにも男の心は晴れない。同僚教師(ジョシュア・ピース)との何気ない会話の中に出て来た『道は開かれる』という名のカナダ映画。その日、レンタルビデオ屋に吸い込まれるように入ったアダムは何気なく『道は開かれる』を借り、部屋のPCモニターで観る。突然見た悪夢、室外機のNOISE、映画の物語よりもむしろ、アダムは別の思いに導かれもう一度映画を鑑賞する。そこには自分と瓜二つのベルボーイのフレイザー・アッシュが出演していた。エンドロールで名前を書き取り、googleで検索したアダムは、ダニエル・センクレア(ジェイク・ギレンホール=一人二役)という男だと知る。これまで3本の映画に出演した無名の若手俳優に、大学教授であるアダムは会ってみたい衝動に駆られる。ヘーゲルの「世界的に重要な出来事は必ず二度起きる」という文章、ラスバーン通り3650に意中の男は6ヶ月の身重の妻ヘレン(サラ・ガドン)と暮らしていた。

 ポルトガルのノーベル賞作家であるジョゼ・サラマーゴの原作を映画化した物語は、90分の短い物語ながら決してウェルメイドな作品ではなく、むしろ20~30分の短編を無理矢理に90分に引き伸ばした印象を受ける。勅使河原宏の『他人の顔』や黒沢清の『ドッペルゲンガー』ともモチーフの共通する物語は、パラノイア的な妄執を抱えながら、ただただシリアスに地を這うように2人の人格をやがて等価に結ぶ。ドゥニ・ヴィルヌーヴの3作と今作に続く『ボーダーライン』へのフィルモグラフィを眺めた時、彼の物語は構造的に「支配と服従」の大いなるメタファーを孕んでいることに気付く。『灼熱の魂』のナワル・マルワン(ルブナ・アザバル)と監獄の拷問人アブ・タレク(アブデル・ガフール・エラージズ)、『プリズナーズ』の被害者家族の大黒柱であるケラー・ドーヴァー(ヒュー・ジャックマン)と第一容疑者であるアレックス・ジョーンズ(ポール・ダノ)、そして今作のアダム・ベルとダニエル・センクレアの関係性はまさに『ボーダーライン』のケイト・メイサー(エミリー・ブラント)とアレハンドロ(ベニチオ・デル・トロ)にも呼応する。当初は片方の圧倒的な支配と服従に見えた関係性が、終盤突如、位相を変える。それこそがドゥニ・ヴィルヌーヴ作品の醍醐味であり、通奏低音なのは間違いない。

 しかしながら問題は、その明確なモチーフに裏付けられた物語が、観客にしっかりと伝わっているかに尽きる。母親のキャロライン(イザベラ・ロッセリーニ)も登場するブルーベリーのエピソードは、登場人物たちの統合と分裂を見事に暗喩するものの、セピア色のトロントの高層ビル街に一瞬登場した『新世紀エヴァンゲリオン』のような例の唐突な描写と、妄執に囚われた妻ヘレンが様変わりするクライマックスにはしばし呆気にとられる。瓜二つの男が入れ替わったことにヘレンは最初から気付いているが、メアリーは愛し合う矢先にふと目にした左手薬指の痕跡で別人だと気付く。監督ドゥニ・ヴィルヌーヴ×主演ジェイク・ギレンホールの物語は同じコンビ作であるハリウッド映画『プリズナーズ』とは180°異なるアート・フィルムとして今作を仕上げる。圧倒的な説得力を讃えた無人ショット、パラノイア渦を想起させる不気味な不協和音、近未来的で無機質なモチーフはサスペンスの雰囲気を持ちながら、スタンリー・キューブリックやデヴィッド・クローネンバーグのようなSF由来の表現で観客の心根に訴えかける(同じくカナダ出身の天才作家であるクローネンバーグ父子のミューズであるサラ・ガドンの妊婦での起用はその思いを一層強くする)。リドリー・スコットの『ブレードランナー 2049』での監督指名は、ハリウッドの本流に乗ろうとして壮絶に失敗した『プリズナーズ』よりも、むしろ低予算のカナダ映画として気軽に作られた今作のSF由来の作家としての確固たる絵作りにあったはずである。
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