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柘榴坂の仇討のkuuのレビュー・感想・評価

柘榴坂の仇討(2014年製作の映画)
3.6
『柘榴坂の仇討』
映倫区分 G
製作年 2014年。上映時間 119分。
作家の浅田次郎が2004年に発表した短編集『五郎治殿御始末』に収められている一編を、浅田原作の『壬生義士伝』で日本アカデミー賞最優秀主演男優賞を受賞した中井貴一の主演で映画化。
金吾が追い続けた水戸藩浪士・十兵衛を、阿部寛が演じた。
監督は若松節朗。

昨夜BS松竹東急『よる8銀座シネマ』にて視聴。

幕末の安政7年、主君・井伊直弼の御駕籠回り近習役として仕えていた彦根藩士の志村金吾は、桜田門外において目の前で井伊の殺害を許してしまう。
切腹も許されず、仇討ちを命じられた金吾は、時が明治へと移り変わってもなお、井伊を殺害した刺客を探し続ける。
やがて金吾は、井伊を討った水戸藩浪士の最後のひとりで、車引きの直吉と名を変えて生きていた佐橋十兵衛を見つけ出すが、その日、明治政府が仇討ち禁止令を発する。

明治ちゅう時代背景は、武士の居場所などない世の中で、武士が自分の居場所を見つけるために何をすべきかを扱った、数え切れないほどの映画化の舞台となってきた。
今作品は、同じ路線で復讐劇を軸にしながらも、平和を見つけ、最終的に自分の人生を生きるとはどういうことかを扱っている。
邏卒(警察官)であろうと、農民であろうと、漁師であろうと、ただの侍であろうと、結局は生き続けなければならないのやから。
しかし、侍の場合はそう単純ではない御時世。 
なぜなら、彼らの名誉は命よりも優先され、あるいは同等に扱われる必要があるから。 
そないなん、ささっと捨て去れる元侍も多々居たやろけど。
せやし、この物語もまた、侍であることの本質を見失うことなく、新しい時代を迎える男を中心に展開する。
彼が歩むべき細い赤の一線。
今作品の原作は、中井貴一も主人公を演じた『壬生義士伝』の原作をすでに世に送り出している浅田次郎。
さらに、韓国映画『パイラン』や日中合作映画『蒼穹の昴』、あと『鉄道員』(ぽっぽや)や、もうすぐ上映の『大名倒産』も浅田次郎の作品が原作です。
今作品で扱われる人物や動機の複雑さは、それ故に批判を免れてもええんかな浅田次郎故に。
しかしすぐに、映画全体を貫くある弱点が明らかになる。
結局のところ、この作品はテーマを繊細に扱い、行間を読むことを要求するドラマにはなっていない。
実際、すべてを匙加減され、解釈の余地を与えられない。 
そのため、監督は見てる側の精神的な処理能力を信頼していないように感じられ、しばしば腹立たしくなる。
さらに、この問題の結果として、かなり陳腐なシーンがいくつか出てくる。
これには西洋のお守りと称するブレスレット(ミサンガ)と寒さに耐える花など、これらは我々が最も予期するときに出てくる。
創造性が違って見える。
久石譲のサウンドトラックもいいのやけど、ちょっと前面に押し出しすぎていて、シーンによってはちょっと安っぽくさえ感じた。
今作品に人間関係にソープ・オペラのような魅力を与える必要はまったくないので、それは残念でしかない。
金吾とその妻の関係は、わずかなヒントしか与えられていないにもかかわらず、十分に重層的であり、十兵衛の恋の可能性は常に映画の中にさりげなく組み込まれている。
実際のドラマは、もちろん二人の侍を中心に展開する。
彼らは新しい時代に完全に迷い込み、名誉ある死によってしかこの世に居場所を見つけられないよう。
特に、元侍が突然、金銭的な問題で嫌がらせを受けてて、そこに同じように元侍たち助けに来るシーンでは、今作品がかなり強引なやり方で主題を扱っていることが明らかにしてる。
今ならば借りた銭を利子無しでジャンプするんはモンスタークレーマーでしかない。
侍は明治時代にも存在しているが(士族としても含め)、単純な職業をより繊細に行使することを余儀なくされているため、そのように見せかけてはいけない。
金吾はこのように、非常に頑固な過去の遺物のように見える。
しかしその一方で、主君を殺した犯人を見つけるまで、なぜ自分が自分であることを否定しなければならないのやろうか?
その後、彼は主人に従って名誉ある死を迎えることが許される。
したがって、金吾は政治には関心がない。
しかし、彼はまた、日本がいかに急速に変化しているかを理解しなければならない。
見てる側はまた、阿部寛演じる十兵衛を通してこの事実を知ることになる。
彼は金吾とは反対に、明治という時代に自分の居場所を見つけようとしている。
少なくともそう見える。
とは云え今作品には、明らかに素晴らしいシーンもいくつかある。
特に雪のシーンがそう。
ただ、いくつかのシーンはちょっと強引すぎると思わざるを得ない。
いくつもの時間軸を飛び越えるのも、独創的な物語のアプローチではない。
さらに、卓越した殺陣(剣技)を期待してはいけないかな。
雪の中での対決はあるかもしれないが、これは振り付けのせいでそれほど素晴らしいものではない。
その代わり、2人の侍の魂がほとんど肉体を持ち、終盤の対決をスリリングなものにしている。
ある種のキッチュな要素はあるものの、それでもアレコレ重箱の隅をつつく様なこと書きたてましたが、このドラマはよくできていると云わざるを得ないです。
映画は、感情的なレベルで狙ったものを伝えることに成功しているし。
確かにもっと繊細な表現もできたやろうけぉ、あまり厳密すぎてもいけないのかもしれない。

今作品を視聴し徒然に。
『名誉』武士道におけるこの名誉てのは、名を尊び自分に恥じない高潔な生き方を守ることであると思う。
武士道の死ってのは生を高めるための死生観であり、それは、どう生きながらえるかじゃなく、むしろ、どう美しく死ぬか、同時に何のために生きるかちゅう根元的な哲学の上に位置するものである。
そこから転じて、武士道は死を超えても守らなければならない義のために、死をも美学として昇華させた。
一般に名誉の観念は、面目・外聞などの言葉で表されるけど、裏を返しゃ全て恥を知ることやと云える。
武士の間じゃ、高潔さに対するいかなる侵害も恥とされ、羞恥心を大切にすることは幼少の教育においてまず初めに行われた。
面目を汚すな
人に笑われちまうぞ。
恥ずかしいことをすんな
とかの言葉は、過ちを犯した子供の振る舞いを正す最後の切り札とされてた。
今でもその名残は日本には残ってるかな。
そのため武士道における徳には全て恥の意識が働いていた。
この恥ってのは人の道徳意識の出発点であり、その対極たる名誉は、人間が人間としての美学を追求するための最初の徳とされ、武士にあってはまさに、命以上に重きを置くものとなったと云われてる。
花は桜木、人は武士、柱は桧、魚は鯛、小袖はもみじ、花はみよしの
との言葉もあるように(実は武士ではないトンチの一休さんが残した言葉やけど)、武士は不名誉な生より名誉ある死を求め、桜のような散り際を武士道の誉れとした。
日本人の精神文化が恥の文化とされるのは、こうした長い年月のなかで培われたものだったといえる。
しかし、名誉てのは明治時代以降しばしば、虚栄や世俗的賞賛と混同された。
しかし、武士にとって名誉は損得勘定の対象ではないんじゃないかな。
明治時代以降、末は博士か大臣かちゅう言葉に象徴されるような立身出世主義が蔓延した。
新政権下での夢は、
1番が政治家になること、だめなら
2番が学者、それもだめなら
3番が軍人、それもだめなら
新聞記者・・・のような順番やったそうっす。
しかし、名誉が人生の至高善として尊ばれるのは、それが富みにあらず、知識にあらずやからであり、私利私欲にあらずやからである。
世間の評判を気にするような名誉は本当の名誉やない。
また、名誉の繊細な掟が陥りがちな病的な行き過ぎは、寛容と忍耐で相殺された。
ならぬ堪忍、するが堪忍ってのから読み取れるように、取るに足らない侮辱に腹を立てているようでは優れた人物に相応しくないが、大儀のための義憤は正当な怒りとされた。
中国戦国時代の儒学思想家の孟子は、
些細なことで怒るのは君子に相応しくない。しかし、大義のためにする義憤は、君子に相応しい怒りである。
と説き、これが武士の間で守られたのやろと思う。
若者達が追い求める目標は、富でも知識でもなく名誉やったんはたしかやろな。
多くの少年が志を持ち生まれ育った家を出る時には、世に出て名を成すまでは再びこの敷居をまたぐまいと心に誓った。
彼らは若いときに得た名誉が年齢と共に大きくなることを知っていたのだろう。 
この名誉の定義について、孟子は、
『誰でも名誉を欲する心を持っている。
しかし、真に名誉なものは他でもなく自身の心の中にあるということを解っている人は少い。 
人から授かる名誉などは正しい名誉とは言えない。』とし、
新渡戸稲造は、その著『武士道』で、
『名誉は境遇から生じるものではなく、それぞれが自己の役割をまっとうに努めることにある。
恥となることを避け、名をかちとるために侍の息子はいかなる貧苦をも甘受し、肉体的、あるいは精神的苦痛の最も厳しい試練に耐えたのであった。
もし名誉や名声が得られるならば、生命自体はやすいものだとさえ思われた。
したがって生命より大切とする根拠が示されれば、生命はいつでも心静かに、かつその場で棄てられたのである。』と著している(原文は英語)。
江戸中期の儒学者、小河立所は
『人が自分のことをどんなに悪く言おうと、悪口を返すのではなく、自分の忠勤が足りなかったのではないかと反省することだ』と説いた。
プラトンの対話集『クリトン』やと、
『一番大切なことは単に生きることそのことではなくて、善く生きることである』
『善く生きることと美しく生きることと正しく生きることは同じだ』とされる。
この本来の意義ある名誉ある人生を少しでも沿って生きたいものです。
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