ちょっと魔法でばんそうこ

KANO 1931海の向こうの甲子園のちょっと魔法でばんそうこのネタバレレビュー・内容・結末

KANO 1931海の向こうの甲子園(2014年製作の映画)
2.5

このレビューはネタバレを含みます

KANO
みんな仲良さそうで微笑ましかった。

『嘉義に着いたら起こしてくれ』
台湾語、客家語、アミ語(原住民語)。

▷1895(明治28)年、日清戦争の後 下関講和条約により台湾が日本に割譲される。その後 1945(昭和20)年にポツダム宣言を日本が受諾し、第二次世界大戦が終わるまでの間、台湾は日本の統治下に置かれた。◁

1929年、「嘉農」野球部に新任監督として日本人の近藤兵太郎が迎えられる。近藤は日本人のみを贔屓することなく、守備に長けた日本人、打撃に長けた漢人(台湾人)、韋駄天の如く足の速い高砂族(台湾原住民)の選手たちのバランスの良いチームを作り上げていく。
近藤はかつて愛媛で松山商業を指導したが、あまりの厳しさに萎縮した彼らとは違い、嘉農の選手たちはもともとのんびりした気質だったのか、伸び伸びとプレーし好調に成長していった。

「全国中等学校優勝野球大会」へ向けた台湾大会が始まる。当時、台湾代表として全国中等学校優勝野球大会へ出場できるのは台湾全島で1校だけだったため、甲子園へ行くには台湾大会で優勝する必要があった。しかも従来出場を果たしてきたのは日本人のみで構成された「台北一中」や「台北商業」だった。しかし周りの冷たい反応を意に介さず、嘉農は快進撃を見せ全島優勝を果たすのだった。
台北から凱旋した選手たちは、工期10年を要し、当時アジア最大規模の水利工事を経て烏山頭ダムを含む灌漑施設"嘉南大圳(かなんたいしゅう)"が完成したことを知り感動していると、八田與一(はったよいち)に会い、激励を受けるシーンもある。
そして、いよいよ1931(昭和6)年、甲子園球場で行われた第17回全国中等学校優勝野球大会。
初戦 対 神奈川商工 3-0 で完封勝利。準々決勝 対 札幌商業 19-7 で圧勝。準決勝 対 小倉工業 10-2 でこれまた圧勝。そして決勝は名門中の名門、中京商業が相手だった。熱い闘いを見せるが中京商の吉田正男に完封に抑えられ、ついに優勝はできなかった。しかしその奮闘ぶりは日台両国の人々に感動を与え、讃えられた。
選手たちは準優勝盾と甲子園の土を手に、船で台湾への帰路につくのだった。

『嘉義に着いたら起こしてくれ』=「どんな状況下でも決して諦めない嘉義農林の球児たちを育んだ土地を見たい」

⚪︎嘉農(かのう):日本統治時代の台湾の嘉義市に実在した、嘉義農林学校を日本語読みした当時の呼び名。