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ペンチャー・ワゴンのarchのレビュー・感想・評価

ペンチャー・ワゴン(1969年製作の映画)
4.3
イーストウッドがこの映画に携わる上で軽薄な映画すぎてストレスを抱えたと聞いていたので、恐る恐る観たのだが、かなり見所のある作品で驚いてしまった。
金採掘のために西部を移動する金掘り達一行と彼らがウエストサイドで作った街についての物語で、インターミッションを挟む程の巨編でまずそこに驚く。他にもかなり大掛かりなセットと人数にも驚かされるわけだが、しかし第一印象としては"軽薄"であることは間違いない。
西部開拓時代の価値観とそれを許容してしまう上映時の価値観から来る女性軽視なコメディはまさに軽薄だし、音楽のノリと男性のお馬鹿っぽさも2時間半の映画とは思えない悪い意味での軽快さを演出する。映画の中盤、インターミッションの手前で主人公二人の男が一妻多夫制を申し込む姿にはついには見るのを辞めようと思ったが、後半になるとかなりこの軽薄さが自覚的なのだと気付かされる。

そもそもとしてこの映画の題材である男達は金掘りの為に渡り歩く集団で、その特性として文明的な生活を好まず、逃げるようにして西へと移動するというのがある。ここから彼らの軽薄さ幼稚さというものが発露していて、彼らは時代に取り残されることとなる人々であるのだ。それはつまり現在において西部劇が"終わったジャンル"として存在していることや西部劇のテーマとして常に時代に取り残される人々や過ぎ去った時代を描いてきたことと同じであり、変奏で分かりにくいが、列記とした西部劇としての語り口がそこにあるのだ。

それを踏まえてみていくと、金採掘の町が次第に発展し、酒場や売春宿に溢れかえり、また宗教や催事などの文明が到来していく中で『ランボーラスト・ブラッド』のように粛々と街中の地下に掘られるトンネルはその街の本性として「空虚」のメタファーとして機能する。
そして何よりラストの展開が素晴らしい。そのトンネルによって街が完全に崩壊するのだ。メタファーとして最大限機能し、街の空虚さがさらけ出されていく。その様はセットを思いっきり破壊する痛快さも相まって見事なものだった。
ここに私は本作の軽薄さへの"自覚"を感じたのだ。軽薄に作り、最後に壊すことで自浄して、西部劇が持つ過ぎ去った時代、取り残された人々の哀愁と楽観を見事に描き出しているのだ。
ラストのクリント・イーストウッドとリー・マーヴィンの離別こそがそれを体現し、「相棒が好きだ」告白し終わっていく。
ある意味、ここでクリント・イーストウッドにとっての西部劇との別れは済まされていたと解釈出来るかもしれない。
だが、クリント・イーストウッドはこの映画を軽薄だと毛嫌いする。つまりクリント・イーストウッドは自覚せずに、次の映画へと行くのだ。
だがそのおかげでイーストウッドは当時の典型的なスター路線を離れ、自身で当時には珍しい主演監督作を生み出していき、シーゲルとの出会いや数多の名作が生まれることとなったのだ。
そして真の意味で西部劇との別れを描いた『許されざる者』が生まれたのだ。
ある意味、ここは分岐点なのかもしれない。この作品が誰にも(イーストウッドにも)見向きされなかったからこそ、いまがある。クリント・イーストウッドがある。アメリカ映画史があるのだ。
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