テテレスタイ

砂上の法廷のテテレスタイのネタバレレビュー・内容・結末

砂上の法廷(2015年製作の映画)
4.0

このレビューはネタバレを含みます

法廷が舞台の渋い映画は大好き。
この映画はエンタメ要素やドラマ要素が薄味の渋いつくりになっていて僕好みの味付け。なので視聴前の期待は高かった。ところが、実際に視聴したら期待外れだった。ラストシーンでは主人公(弁護士)は勝訴したにもかかわらず、法廷の傍聴席に座ったまま、たそがれて終わる。僕もこの映画を見終わったとき、たそがれてしまったw
ラスト付近で真犯人が判明するんだけど、それでこの難解なストーリーを覆っている霧が晴れたかというと、まだまだ不透明な部分が残っていて全然すっきりしない。だから視聴後もモヤモヤ状態が続く。
この映画のラストシーンは冒頭のシーンと同じ構図となっている。なので、製作側としては、真犯人を知った上でもう一度最初から見て欲しいという思惑があるのだろう。

たしかに、(そんな時間があればだが)もう一度見ると別の視点で見ることができて面白い。具体的には、殺害された弁護士ブーンの視点で見ることができた。ブーンは本当は良き夫だったのに法廷では嘘や印象操作でDV夫に仕立て上げられた。もしもブーンがあの法廷にいたらさぞかし立腹したことだろう。

あの法廷の被告人はマイク(ブーンの息子)だったはずなのに、実質的にあの法廷はマイクではなくブーンを裁く場になっていた。ならば実質的な被告人はブーンであり、ブーンの「死人に口なし」な状態を表現するために、この映画はマイクにわざと何もしゃべらせなかったようにも思えてくる。

そうすると、2週目の視聴における論点は、どうしてブーンがDV夫にならなくてはいけなかったのか、ということになる。その論点で視聴すると、まるで数珠つなぎのように、あーそれってそういう意味なのかと新しい気づきが生まれる。

たとえば、8か月前のパーティでブーンが妻を罵ったのは、妻の不倫相手はアーサー(お隣の旦那さん)だとブーンが疑ったから。妻を罵れば不倫相手が自分から名乗りを上げてくれることを期待しての芝居だった。そもそも、妻の不倫相手はアーサーだろうと直感したのは、隣家からの覗きの視線にブーンが気づいたため。実際にはアーサーの息子が覗きをしていたのだが。覗きの回想におけるブーン夫妻の行為はまるで他人に見せつけるかのようだったわけで、不倫相手に対して妻は俺のものだぞと知らしめるための行為だったように思われる。

なので、もしも、アーサーの息子が覗き行為をしていなかったら、ブーンは妻の不倫をそこまで疑わず、結果的にDV夫にされずに済んだだろうし、あるいは、アーサーが自分の息子をちゃんと教育してさえいれば覗きなんて起こらず、それによってもブーンは救われたはずだ。

アーサーは、ブーンの癇癪を諫めたのは自分だと法廷において嘘をついた。あのパーティには主人公もブーンの妻もマイクもいたのに何故すぐにばれる嘘をついたのだろうか。もしもブーンを制したのはマイクだと正直に言ったら、マイクが計画的に父を殺害した可能性が出てきてマイクにとって不利になる。したがって、アーサーはマイクを庇ったことになる。マイクを庇う発言ならば主人公からも妻からも文句はでない。だからアーサーはそう証言した。でも、ブーンはどう感じるだろうか。ブーンならこう思うはずだ。いやいや、俺の息子を気にかける前に、自分の息子を何とかしろよ!とw

覗きがなければ法廷もなかった。でも、ブーンはアーサーの息子が覗きをしていたことは知らないはずだ。アーサーが覗いていたと思っていたわけなのだから。なので、ブーンにその文句を言わせるためには、つまり、アーサーの嘘に意味を持たせるためには、アーサーの息子の覗きの回想シーンを視聴者だけでなくブーン自身が見ている必要がある。

もしかして、ちょくちょく挿入されていた回想シーンって実はブーンの幽霊も見ているっていう設定なのかなw

そうだとすると、この映画のストーリーは、殺されたブーンが自分の死にまつわる真実を視聴者と共に解き明かすという話になる。この解釈だと、映画の終盤付近で生前のブーンが主人公にウインクして立ち去るシーンに別の意味が出てくる。不倫の相談をしたそのシーンは、確かにお前は俺の妻と不倫をしたけれど別にそれが原因で俺がDV夫のレッテルを貼られたわけじゃないから気にすんなって意味にもとれる。ブーンは主人公の良き上司だったのだ。



ここまでブーンをずっと擁護してきたけど、ブーン自身に問題がなかったわけではない。法廷の最初の証人モーリーはチャーター便の客室乗務員だった。主人公はブーンの女癖の悪さを知っていて、モーリーに対してそのことを証言させようとしていた。チャーター便では扉を閉めれば密室ができる。ブーンはその密室で女たちと遊んでいた。妻の不倫には怒ったくせに。

ところで、息子のマイクがチャーター便の中で不機嫌にしていたのは、大学選びでリード大学に連れて行ってもらえなかったからだと普通に思ってしまうが、本当は違う理由で不機嫌だったように思う。

マイクは父から母の不倫のことを既に聞いていて(おそらく8か月前のパーティの場で)、母に責任があると半分信じていたが、父が若い女と不貞を働いていることを知って、お母さんだけを責めるのは間違いだと憤慨したため不機嫌になったのだと思う。そして、母にだけ責任があるとこれまでずっと思ってきた自分の過ちを早く母に謝罪したくて、ポートランド(リード大学)に行かずにすぐに帰宅したというのがマイクの心情で、母の身代わりになったのも、母への罪悪感からだという筋書きがしっくりくる。

映画の後半にマイクが突然ギンズバーグ(副操縦士)という名前を出した。父が日常的に機内で若い女と不貞を働いているという話の情報源がギンズバーグなのだろう。その不貞の情報は息子の帰宅後すぐに息子の口から母へと伝わったはずで、その2日後、母と主人公が共謀してブーンを殺害したことになる。

もしも、ギンズバーグの話を信じずにリード大学へ見学に行っていたらあの事件は起きなかったわけで、映画の前半、紙にREEDと書いたのはマイクの後悔の念であるのと同時にブーンの後悔の念でもあった。またREEDは葦のことであり、葦と言えば、人間は考える葦という有名な言葉の通り、人間はちっぽけな存在であっても考えることで偉大な力を発揮できるという意味を持ち、それは即ち、ブーンが息子の身体を借り、無実の罪で捕らえられた息子に向けて書いたメッセージなのだと解釈すれば、潔白な息子を支えようとするブーンの気持ちが伝わってくるようだ。映画の中盤でもブーンは息子の身体を借り、木にぶら下がったタイヤの絵を描いて「顧客が本当に必要だったもの」を連想させてシンプルな戦略(第三者防衛ではなく自己の正当防衛)の必要性を説き、後半においてもベッドの下に落ちている腕時計の絵を描いた。腕時計の絵は判決の直前に描いているので、ブーンは真犯人が誰かを言いたいわけではなく妻にDVなどしていないということを伝えたかっただけだったに違いない。自分が性犯罪者として仕立て上げられたとしてもブーンは最初から最後まで息子を応援していた。

映画の終盤、主人公がブーンとその妻ロレッタの発言を順番に回想するシーンでブーンはこう言った。「ロレッタには無理だ、俺なしじゃ生きていけないんだよ」。そしてロレッタはこう言った。「(前に離婚したいみたいなことを言ったらあの人殺すって)どこに逃げたって絶対に見つけ出すからなって」。ブーンは女好きではあったがロレッタにぞっこんだった。だからロレッタなしじゃ俺は生きていけないというのが真実だろう。夫婦が逆になっている。ならば、ロレッタの発言もそのアナロジーで夫の不貞を絶対に許さないという意味にとれる。そして実際にその通りになった。ならば主人公とロレッタのどちらが主犯なのか自ずと答えは出る。腕時計で犯人は主人公だとマイクが気づいてもそれを警察に言わないのは、夫の不貞を知って我を忘れて怒り狂った母の態度を知っているからで、絶対に母も関与しているだろうという強い確信があるからに違いない。みんな母には頭が上がらないのだ。ラストでたそがれてしまった主人公の複雑な心境もなんとなく分かる。母を怒らせてはいけない。そして怒り狂った母の姿を最後まで一度も視聴者に見せなかったのはブーンの意志だったのだろうと思う。愛する人は愛する姿のままでいて欲しいのだ。

この映画は初見でブーンの不運に絶望して、2週目の視聴ではブーンの弁護士になった気分でブーンに何があったのかを事細かに解明し、ブーンの汚名を返上するように作られている。想像力を充分に働かせ、依頼人のために本気になれることが良い弁護士の条件だと言われたように感じる。



良い映画だと思うのだが、でも、この映画は映画館で見る映画じゃないようにも思う。記憶に残っているシーンを頭の中でつなぎ合わせてストーリーを明瞭にしていく作業が必要になるので、例えばマイクの絵が出てくるシーンってどこだっけといった具合に再生ソフトのシークバーをポチポチできないと不便で仕方がない。ネットストリーミングの場合はあんまりシークバーをいじっているとDoS攻撃みたいになっちゃうので、ディスクをレンタルするかしてローカル視聴するのが最適だと思う。でも今どきディスク再生環境なんてなかったりするので、時代に合って無い映画かもしれない。でも、(大学入試の勉強をさせられた気分になる)こういう冒険的な映画は個人的には大好き。分かんないものが分かるようになるのはやっぱり楽しい。