きゃんちょめ

毛皮のヴィーナスのきゃんちょめのレビュー・感想・評価

毛皮のヴィーナス(2013年製作の映画)
4.0
⑴. 【劇場の外が映るのは冒頭とラストだけ】
 ポランスキーの『毛皮のヴィーナス』は、冒頭のもうワンカット目からうまい。木立と道が映るシーン、あれでもう引き込まれる。誰もいない劇場という深層心理が裸にされていく特異な空間へと招待されているかのよう。それで、ラストにまた俯瞰で劇場全体が映るのもオシャレだった。

⑵. 【ポランスキー的主題】
 目の前に現れた謎の女性によって、男が隠し持っている自分でも認めたくないような卑劣な深層心理が明らかにされゆく、というのが、そもそもポランスキーが得意とする主題だと思う。まぁそもそも、劇作家のトマは冒頭からして、「35人の女と会ったがみんなバカだった」とか言っているし、トマが持つ女性嫌悪(ミソジニー)がどんどんワンダによって暴かれていたとはいえ、はじめからその女性嫌悪の気配はあったのである。とはいえ、以下ではもう少し丁寧に分析してみたい。

⑶. 【ワンダのマゾッホ解釈】
 そもそも、エマニュエル・セニエが演じたワンダは、この作品を「階級どうしの闘い」だと解釈している。というのも、そういうセリフが劇中に存在するからである。階級が下のワンダ夫人が、貴族男性セヴェリン・フォン・クシェムスキーの性的欲望に従わされる話だと解釈しているようだ。
 しかし、女は欲望に従わされつつ、同時に男を支配もしようともする。そのせめぎ合いが、実は階級闘争になっているとワンダは解釈していた。
 それから、なぜセヴェリンは女性を思い通りにして快楽を得ようとしているのかというと、実は途中で出てくるギリシア人の男性が好きなのである、とワンダは解釈している。それで、そのような同性愛の欲望を抑圧して、異性愛を演じないといけない時代背景であるということもポイントだ。だから、異性愛をやりつつ、本来はそれがやりたいわけではないから、どうしても女性を嫌悪してしまうことになる。女性を嫌悪しつつ、しかし女性を愛さないといけない。だから、どうしても、女性を不自然なまでに崇拝しつつ、事実上、自分に従わせてしまう、というわけだ。これがポランスキーがこの映画で描いたマゾヒズムの正体だ、ということになるんだと思う。恐ろしく深い。
 だから、よく言われてることだろうけれども、サディズムとマゾヒズムって、根っこは同じだということになりそうである。この映画のように解釈すれば、相手への支配欲を抑圧しているのがMで、支配欲を隠さないのがSだというだけに見えてくる。


⑷. 【ワンダはトマの幻影なのか問題】
 ワンダ自体、トマの見ている幻影だという説もあるらしい。どうなんでしょうか。まぁ実際、35人もの女性をオーディションしたあとだから、「理想の女を求める気持ち」が爆発してワンダが見え始めているとも取れる。全部トマの見ている妄想だと解釈すれば、「知的で予測不可能な女はいないのか」って叫んだ瞬間に知的で予測不可能な女がノックして劇場に入ってくるのもそれで説明が付くし、ワンダがフィアンセのマリー=セシルの情報を知り尽くしてたり、台本のセリフを全て暗記し終わっていることにも、そもそもなんでワンダ役に応募してきた女優の名前が偶然にも「ワンダ」なのかということにも説明がつく。マリー=セシルがトマに電話してくるタイミングと、ワンダが電話しているタイミングが常に一緒なのも不自然だが、そもそもワンダ自体が幻影ならば不自然ではない。
 とはいえ、なんでワンダはフィアンセのマリー=セシルの情報を知っていたかというのは劇中に説明があった。この映画の終わりから23分目のところで、「「私は女優を諦めて私立探偵になるつもりだ」とマリー=セシルにジムで言ったら、じゃあ彼氏のトマのことを調べてくれと頼まれたのよ」とワンダがセリフで言っている。だから、全ては幻影だという解釈ではなく、ワンダが実在するとも取れるような仕掛けになっているわけだ。
 こんなふうに、色々考えれば考えるほど面白くなっていく。尺が短いからサクッと見れるのに、いちいち奥ゆかしい映画である。ところで、トマが飼っている犬の名前は、「脱構築」という概念を作った思想家のデリダであった。そういうところがいちいち笑えるのである。


⑸. 【表層解釈のトマVS深層解釈のワンダ】
 トマとワンダは、マゾッホの原作をどう解釈するかを巡って、劇中で対立していく。トマは、やっぱりフランス人らしく、明らかに表層解釈だった。表層解釈というのは、作品の背後を想定せずに作品だけを素直に見るというもの。それに対して、ワンダは作品の背後に、「でも本当は裏の欲望があるでしょう」と言い続けている。この二つの解釈が対立している映画だと見ると非常に面白いと思う。たとえば、「このセヴェリンという人物はあなたの投影なのね!」とワンダがいうと、「そんなことない!」とすぐにトマは否定していた。原作小説を深層的に解釈してるのがワンダで、素直に受け取って独特の愛の形だと見るのがトマなのである。
 実際、この映画の終わりから37分目くらいのところで、「女を舐めるな!」という深読みこそが、このマゾッホの作品のテーマであると語るワンダの深層解釈が、「欲望に注意!」こそがこのマゾッホの作品のテーマであると語るトマの表層解釈と、対立的に提示されている。要するに、被虐的欲望の中に、高尚で繊細な愛があると言いたいトマに対して、被虐的欲望の中に、実は同性愛の抑圧と、その代わりに異性愛をやらされているせいで起こってしまう女性嫌悪があると考えるのがワンダなのだと思う。

⑹. 【マゾヒズムの中に隠れた支配欲】
 「この物語は男性側が自分を支配するように女性に頼み、女性はそれに従っている。でも、これはどちらが支配し、服従しているのかしら?」みたいなセリフも面白かった。やはりワンダは深くこの作品を理解しているようだ。というのも、ワンダは男を支配しているようでいて、実はひたすら男が喜ぶことをやらされているのだから。例えば、ワンダがトマをビンタをするときに、「ブラブラ、ブラブラ、ブラブラ」という仕方でセリフを省略すると「ちゃんと言葉責めをしろ!」みたいな態度でトマはマジギレしていたが、あれこそまさしく剥き出しにされた支配欲だと思う。ことほど左様に、ワンダを演じているセニエが、無学なギャルかと相手に思わせて、実はめちゃくちゃ教養がある人だったとわかっていく展開が秀逸なのである。例えば、ピエール・ブルデューというハビトゥスの概念を作った思想家の名前もワンダの口から出てきたのである。
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