Jeffrey

犯された白衣のJeffreyのレビュー・感想・評価

犯された白衣(1967年製作の映画)
3.0
「犯された白衣」

冒頭、海辺に佇む美少年。看護婦寮へ足を運び、虐殺開始。逃げ惑う女、血の赤、拳銃、死体の陳列、海ほおずきの歌、一人生かされた女、天使、縄縛り、静寂の夜、海鳴りと風音。今、断末魔の叫びが空気を切る…本作は一九六七年に若松プロダクション制作、配給で若松孝二が監督したピンク映画で、この度DVDボックスを購入して初鑑賞したが面白い。ATGでも監督として活躍している唐十郎(彼の場合本作の脚本を足立、山下らと担当している)が美少年役で主演を演じている。どうやらシカゴ・看護婦八人殺人事件を下敷きに、キャスティング費用などを抑えるため「続日本暴行暗黒史 暴虐魔」の撮影と並行して撮影が行われ、女優陣もそのまま撮影に参加したとの事。これは後の足立正男の「女学生ゲリラ」と「処女ゲバゲバ」と同じである。

アンダーグラウンド演劇運動の旗手であった状況劇場、唐十郎の即興的の脚本、演技を生かすための長回しの対応などで、映画と演劇が超境する可能性を表し、後に様々な形で展開されていく映画実験の新たな地平を切り開いたと当時話題になり、わずか三日間で撮りあげられたと言う話は有名だそうだ。シカゴでの連続殺人事件に想を得て、即座に生み出されたこの作品が、ー部の評価や文学者に強く支持され、若松孝二の評価を決定なものにしたとの話である。犯された白衣は足立正男の草稿をもとに脚本化されていくのだが、リチャードスペックによるシカゴ看護不連続殺人事件とは少しばかり内容が違うのは言っておかなくてはならない。本作品では美少年をじっと見つめることによって少女が殺されなかったのだが、実際の事件では他の部屋で殺人を犯している間にベッドの下に潜り込んで逃げ延びたとされているようだ。それにしてもこんなどうでもいいような小さな事件(当事者にとっては大事件だが)映画的に比べれば小さな事件であるにもかかわらず、ここまでアクチュアルな作品に仕立てたのは素晴らしいと考えるべきだろう。

この映画面白いことに、「胎児が密猟する時」と言うタイトルの胎児がこの美少年に見えて仕方がなかった。何が言いたいかと言うと、白衣の天使とされる看護婦たちをなぶり殺しにし、死体を陳列して生き残った少女の膝の上で横になる美少年の描写はまさにその少女の腹の中に入ろうとする胎児の如くである。うたた寝している間に、フレームはスチール写真になり、警棒を振りかざす機動隊のストップモーションに移り変わり写真と音声のみで我々にこの後のいきさつを提示しているのだ。この美少年は母性を求めていたのかもしれない。いやきっとそうである。この作品も若松の他の作品同様になぜ?と言う言葉がつきまとう。海辺からやってきた美青年はどこから手にしたのか拳銃を持っている。そしてなぜ女性を殺してしまうのかと言う理由も宙づりのままであり、不可解極まりない。不気味でありながらもその美しい容姿に魅了されてしまう…。

彼の行動を理解しようと画面の中を隅々に目配せしたが理由が見つからない。そもそも少女が竜宮城の浦島太郎と言う言葉を使う場面があるのだが、彼は海の向こうから来たと言っているが、泳いできたのか、どのような形で来たのかも不在のままである。しかしながらこれが若松映画の真骨頂である。暴力と殺人、それらが何よりも重要視しているのが権力者として立ち振る舞ったとしても必ず地べたに寝転ぶ(死体となって)と言う事柄が描かれているようにも感じる。

さて、物語は海辺にたたずんでいた美少年が、看護婦寮にやってくると突然持っていた拳銃を発射し、次々と女性たちを陵辱、殴り殺していくが、一人の少女だけが取り残される。本作の冒頭は銃撃音が聞こえてタイトルが徐々に小さくなっていき、数十枚のスチール写真の積み重ねによるファースト・ショットで始まる。それは街を彷徨う美少年の姿やヌード写真など様々なものがクローズアップされていた。美少年が海に向かって拳銃を発射して海辺をトコトコと歩いている。県立病院のとある看護婦寮で、婦長の部屋で婦長と看護婦Dが愛し合っている。みんなで覗き見をしていると、外で音が聞こえて塀を乗り越えてきた美少年が立っている。看護婦たちは、招き入れ、一緒に覗き見をさせる。すると突然、美少年は中に押し入り、Dに銃を発射する。残りの看護婦たち拳銃を突きつけ、婦長の部屋に監禁する。

彼は何一つ言葉をはしない。空気は静寂に包まれる。ただ海鳴りと風が聞こえるだけだ。殺害の理由がわからない看護婦たちはただ泣きわめいている。一人の少女だけは美少年をじっと見つめている。女が外に逃げ出そうとするが、美少年は追いかけて捕まえ連れ戻し服を引き裂く。そこに裸の看護婦たちが自らに迫ってくる幻覚が重なる。それは胸を出し黒を基調にしたバックで写し出される。そして少年は女を殺す。裸になった違う女が美少年の前に立ち、、押し倒して体を任せていく。美少年はそれを受け入れて愛撫し始めるが、無表情な女の顔に女たちの笑い声の幻覚が重なる。彼は女の陰部に銃口を押し込み引き金を弾く。

彼は、少女を見つめている。自分をなぜ見つめているのか少女に聞くと、なぜ殺すのかと逆に問われる。婦長は、美少年に詰め寄り、銃を撃った理由を聞こうとするが、美少年はわからないとしか答えない。彼女は身の上話やリビドーについて自説を述べて命乞いのような説教を始める。彼が彼女の口にした白衣の天使と言う言葉に反応すると、彼女は急いで違う女を立たせ、白衣を着させる。美少年は、その女を連れ出し、廊下の奥の柱にくくりつける。口笛を吹きながら、カミソリで女の体と白衣を切り込み、白衣を血まみれに変えていく。女の叫び声しか聞こえず怯えていた婦長は、美少年に奥へと無理矢理連れて行かれ、切り刻まれた女の姿を見て半狂乱になる。部屋に逃げ戻り、少女の影に隠れたりなどしている彼女に、美少年は罵倒しながら三発もの銃弾を撃ち込んで殺してしまう。

残された少女は、美少年と見つめ合い、自分だけがなぜ取り残されたかを問う。美少年は、どうしてそんなに見つめるのかと聞き返し、少女は自分を既に知っているのだと言う。そんなことを知らないと答える少女に、どこから来たのかと問われるが、あっちから来たとしか答えない。彼は、少女の体をゆっくりとを押し倒し、彼女を飾るために血を流したのだと告げる。しかし、少女は自分を飾るならば、美少年自身の血を流せばよかっただけだと答え、美少年の指を噛んで血を流させる。指のクローズアップが写し出され、自分は海ほうずきだと告げ、子守唄歌い始める。美少年は、少女の胸に顔を埋めて、その歌に聞き入って行く。

少女と少年が海辺をかけていく。彼は少女の膝で寝込んでいる。周りには五人の血だらけの死体が横たわっている。美少年の顔に、赤ん坊の姿が現れ、その後に少女の姿はなく、美少年だけが死体とともに横たわっている画作りになる。ここはカラーフィルムで映される。そして機動隊が寮に駆けつけ、警棒を振りかざす場面がストップモーションとなる。どこにでもいる青年の写真や新聞や雑誌の記事、デモ、米軍機の写真や広告やニュースの解説やデモの歌や声の音声等が重ねられていく…とがっつり話すとこんな感じで、看護婦寮の密室を舞台に繰り広げられる五人の女と男一人の男がめぐる暴力を描いた作品であり、エロスとタナトスの関係を映し出し、社会的な規範と群衆心理に支配された世界を描いたバイオレンス映画である。


いゃ〜冒頭の"ねんねんころりよ"のミュージックをバックにあらゆる静止画が積み重なっていく冒頭は印象的である。それと静寂の中、海鳴りと風の音を強調とさせた嵐音の中でセックスをする場面も強烈である。女のクローズアップや、笑い声で幻想的な女の裸体の描写などをすごかった。しかも同じシーンが二十五分間も経っていて、ようやく男が声を初めて発すると言う長い間の静寂なサイレント風の演出も良かった(女は小声で話したりしていたが)。それにモノクロからカラーフィルムに変わるときの血糊の迫力も凄いし、全編を通して海ほおずきが流れる悲しくもはかない音楽が情感を表すこんな残酷な描写の中で…。

やはり上映時間がー時間を切っている分、長回しを重ねることによって時間を大幅にとっていると言う演出が見て取れる。しかしながらそれは映画と演劇をうまくつなぎ合わせた形に展開されていき、映画実験としては成功をしていると感じる。後に監督になる唐の美青年ビジュアルは素敵だが、彼がアートシアターギルドで監督する「任侠外伝」はあまりにも気色の悪い映画であった。そもそも本作品で映画デビューを果たした唐は大島、和田、松本の作品にも出演していた。この作品もパートカラーの方法論が写し出されているのだが、柱に縄でくくりつけにされた血まみれの女の描写と死体だらけに囲まれる描写が圧倒的に印象に残る。モノクロームのコントラストの中でひときわ目立つカラーの色彩は脳裏に焼きつく。

それにしても男の前からいつの間にか消えていた女がもし男の思いを拒否していれば少年はその女子も殺していたのか、殺していなかったのか、どういった運命になったのかが気になってしょうがない。かくして白黒映画の支配を侵す効果を持つ突発的なカラー映像の中でいつも若松映画の女優は犯されている。犯されている女=カラーフィルムと言う徹底したぶれない態度はあっぱれである。それは「ゆけゆけ二度目の処女」の男が犯される場面も一緒である。このたび一気に若松映画を見たため、色々と新たに発見できたのは良かった。彼の撮った大量の作品を早く見てみたいものだが、メディア化されてないのとらそもそももう既に存在しないもの、VHSのまま等あるため見ることが困難であるのは残念だ。
Jeffrey

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