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マルケータ・ラザロヴァーのTnTのネタバレレビュー・内容・結末

マルケータ・ラザロヴァー(1967年製作の映画)
4.3

このレビューはネタバレを含みます

 予告の荘厳さとは裏腹にかなり泥臭い物語で、その聖俗の混ざり合いが良かった(いやむしろその切り離せ無さこそ今作の持つメッセージではないだろうか)。思った以上にアクションも多く、「蜘蛛の巣城」さながらに槍や矢が飛び交い、黒沢映画のような戦の臭気を漂わせていた。また同時期にタルコフスキーの「アンドレイ・ルブリョフ」(完成は1966年)があり、歴史超大作がボコボコと各地で生まれる当時の映画界の豊穣さを窺える。「アンドレイ・ルブリョフ」に関してはテーマもかなり似ていたように思うが、ディティールを思い出せないので言及はこれぐらいにする。

 物語が複雑だと小耳に挟んでいたので一応あらすじだけ知ってから鑑賞。思ったほど難しくないことがわかった。王国とそこに従える二つの領主があって、そこがいざこざを起こしどんどん分断が深まっていくというような大まかな筋である。複雑なのは、それが時折奇跡のシーンが突然挿入されたり過去、妄想、幻想が同じく入り込んでくるからだろう。それでも、一応これらのシーンは他のシーンよりも光量多めに撮られて白く輝いている。かなり地続きで不可分な部分もあり、虚実綯交ぜはやはりチェコ映画全般における傾向だなと改めて思うのだった。今作においては冒頭でマルケータの父ラザルが命乞いをする時、突然光がそのシーンを覆い、その後マルケータの白いシーンが挿入される。このシーンを説明する字幕では、「奇跡が起こる」と書かれているが、その奇跡はこの幻想と現実は地続きに起きるということで達成されたかのように見える。実際、それは合理的ではないし文字化できない繋がりである。その後はわりに現実と虚構として別れて描き出されている。マルケータがその交点として存在することで、彼女の特異な立ち位置がわかる。この映画はまた聖と俗、部族と部族(また部族内でも派閥が生まれる)、キリスト教と異教、男と女など様々な対立が生まれるが、最後に他の部族、それも山賊と婚約することでマルケータはまたしてもその対立を乗り越える。それは陳腐だが純愛が所以なのだろう。また、本当に純な表情のマルケータ演じたマグダ・ヴァシャーリョヴァが素晴らしく、あどけないが唇の艶っぽさがあって、その身体性が既に聖と俗を兼ね合わせているかのようである(顔をすっぽり覆う服が可愛い)。蛇足だが、ヴァシャーリョヴァはその後政治家になっている。以前観た映像の世紀にて、劇作家のヴァーツラフ・ハヴェルが後に大統領になっていることなども付け加えると、チェコが如何に表現者と政治の間に断絶が無いかが窺える。虚実が綯交ぜでなく地続きなのはこうした考えに基づくものだろう(「日本とは大違いだ!」とつい自国を嘆かずにはいられない)。

 タイトルを冠するマルケータの特異な位置は確認できた。しかし、後半やや影が薄かった気がしなくもない。なぜなら、この映画で物語を動かすのは男たちであり、女性陣が牽引することはないからだ。それは現代にも続く古くて悪しき慣習故だろう。彼女は特異な位置にいようとしてるのではなく、あらゆるものに手を引っ張られ、その位置にいるのである。そう思うとラストはなかなかに重い。男の手を離れ、子を育てたというナレーションが入る。しかしナレーションは、マルケータは彼女の息子がまた争いをするかもしれないことを懸念しているということを付け加える。男たちに引き裂かれそうになる自己をやっと救い出した矢先に、生まれる子がまた自己を引き裂くかもしれないこと。いや、今まで引き裂いてきた男を自らが産む悲劇か。唯一の救いは、この物語が語られたことかもしれない。称賛に値しない物語だとそもそもこの映画は冒頭で言い切っていた。ではなぜ語らねばならないのか。それはマルケータに訪れる悲劇を我々もまた味わうからであり、知るべきだからなのかもしれない。我々もまた語るに足らぬ人たち。

 どのシークエンスも冒頭に字幕であらすじが書かれている。それは一見映画の進行を寸断しているように見えるが、この言葉から思い起こさせるイメージと、実際それがどう映像化されるかという二つの体験を生み、その差異が面白かったりする。字幕がかなり端折られているからそもそも想起が難しいという点もあるが、例えば上記で述べた「奇跡が起こる」という字幕と、それを上回る映像を目の当たりにするときの感動は、字幕あってのものだなと思うのだ。これは原作とその映画化という構図を大胆にそのまま映画に取り込んだとも言える。

 音楽が良くて、久々に映画に没入した気がする。グレゴリオ聖歌と合唱が物事を神話へと持ち上げる。作曲はZdeněk Liška、以前みたカレル・ゼマンの「悪魔の発明」でデビューしたそう。ただその没入感は、物語を超えて単体のイメージとしての想像の喚起力がすごく、陶酔的で気がつくと物語から脱線しかねなかった。イメージ単体の強度とそこから沸き立つイマジネーション、物語を超えてしまう喚起力、ここにさらにあの複雑な物語進行があり、脳は陶酔と理性の間に宙吊りだった。

 修道士ベルナルド。マルケータに加えて場面を俯瞰的に見る人物。彼もまた第二の主人公と言える存在だろう。修道士だが、ほとんど物乞いであり、酒を与えられ酔ったあげく、自身の可愛がっていた羊の肉を食わされる。行く先では戦に巻き込まれたり、領地をあらす山賊に襲われたり。また、神と思わしき声さえもが「彼は羊と寝たのか」と侮蔑している。神の道を歩みつつ、その実は人間的な諸々で目まぐるしい。ラストで、マルケータと一緒に旅をしようと持ちかけるベルナルドだったが、彼は新たなお伴であるヤギを逃してしまう。マルケータに静止するよう呼びかけつつも、ヤギの方をジリジリ追ってくベルナルドの可笑しさ。ヤギは牛乳をくれる存在であり食料にもなりうる、彼は修道士的な道ではなく、食というごく自然な生き物としての選択をするのだった。対するマルケータが歩む道とは、その反対の聖なるものを目指す態度なのか。どことなくフェリーニの「道」のジェルソミーナのような、純粋さをこの荒らぶる世の中で貫こうとする態度があるように思えた。
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