おそばマニア

バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)のおそばマニアのレビュー・感想・評価

4.3
第一印象としては、ややこしい。

まず、カーヴァーの小説を演劇化したものが劇中劇になっている。そして、主人公のリーガンに、バードマンというオルターエゴがある(映像もワンカットで、幻想と現実が地続きになっている)。そして、リーガンを演じているマイケル・キートン自身が過去に『バットマン』で主演していた。ここまでで既に『ファイトクラブ』、『イヴの総て』、『サンセット大通り』とかを混ぜたような感じなんだけど、ここに更に、観客、批評家、SNSを攻撃したりする作り手の目線も混じってくる。

長年つづいているヒーロー映画流行りをはじめとして、コンテンツの消費サイクルが加速することに対するため息というか、うんざりしちゃう感じは『キングスマン』でも共有していた問題意識だったけど、これの何が悲しいかというと、どちらも、コメディとして振る舞わないとそもそも映画にできない、誰も見向きもしないであろう(というところまで後退してからじゃないと製作のスタートラインにすら立てない)ということ。 観客は「みんなが大好きなのは血とアクション」とカメラ目線で言われてなお、なにも感じないし考えない。キングスマンでも、「これは映画じゃない」とサミュエル・L・ジャクソンが言ったところで「説教くさい」とすら思われない。認識自体がされてない。

カーヴァーの小説との関連では、映画のほうで顔面の包帯がバードマンの衣装と対応しているように、小説のほうでも、養蜂業者のマスクが登場していたりして、表現の一致が見られるのは面白い。

「ときどき養蜂業者みたいな格好してあいつのところに行ってやろうかと思うことがある。ほら、あのフェイス・マスクのようなのがついたヘルメットみたいな帽子とか、大きな手袋とか、詰めものをしたコートとかさ、そういう格好して」

と、蜂アレルギーの元妻への復讐の衣装として描かれている。そしてこちらは映画と共通だけど、交通事故に遭った老人が、包帯の穴から古女房の顔を拝めないのが辛いと嘆く。
仮面はとても象徴的なモチーフで、いろいろ解釈できると思うんだけど、「変身」と捉えると、たとえばマイク・シャイナー(エドワード・ノートン)は舞台こそが現実で、普段は見えない仮面をかぶっているという天性の役者で、逆ガラスの仮面状態にある。"truth or dare(真実か挑戦ゲーム)" で常に「真実」を選びつづける、現実の世界では不能である彼にとっては、虚構の世界こそが真実としてある。
そんなマイクの対極の位置にいて、現実の世界と虚構の世界の境界を越えられない子供がレズリー(ナオミ・ワッツ)。かつてはマイクと恋仲で、いまはレズっぽいレズリー……
リーガンだけじゃなく、みんな、確かな形での愛を求めて得られずにいる。そして愛の存在の証明不可能性が重力のようにして人々を地面に張り付けにしている。でも真実とかウソとかが他人に判断できないことはおろか、自分にすらよくわからんものだし……とかそういう葛藤から自由な超人、それこそがバードマン。バードマン、なりて~。

あともちろんアントニオ・サンチェスのドラムが超かっこよかった。